手弱男(たおやお)と作法 vol.3 – 宮田涼介

手弱男と作法(宮田涼介)

安原涼太との出逢いは中学時代に遡る。中学二年から三年にかけての同級生だった。私は、彼のあまりの存在感の薄さ故、初めて顔を見た時に「こんな奴いたか?」と首を傾げたほどだった。寝癖だらけの頭髪、まるで洒落っ気のない黒縁の眼鏡、その割に大きく見開いた不釣り合いな眼。自身の容姿というものに頓着のない男であった。不器用なのか、徒競走の順位はいつも下位で、バットの振り方も知らず、ボールを蹴るも遠くへは飛ばず、ドリブルも儘ならず、逆上がりも出来た試しがなかった。その上、音程も取れず、デッサンや裁縫もちぐはぐで、その無様な姿は学級の中でよく嘲笑の的となっていた。しかし成績は優秀で、定期考査の点数に秀でた男という印象しかなかった。

「お前、今回の中間テストは五教科で何点だった?」

中学二年の五月だったか、安原は初めて私に話し掛けてきた。私も当時は勉学というものに励んでいたから、恐らく彼は私の噂を聞きつけて敵情視察に掛かったのだろう。

「四七二点」

安原の口元が歪んだ。分かり易い男だと思った。そうして、自分は点数を申告する事もなく、ただ歯痒そうな顔をして私のもとを立ち去った。その感じの悪いこと、第一印象は最悪だった。

 安原は授業の際、教師から振られてもいないのに次から次へと積極的に発言をし、「先生、もうこの計算問題を解き終わったんですが次は何をすれば良いですか?」などとこれ見よがしに質問をしてみせる等、事あるごとに嫌味を発揮する。自分の博識ぶりをひけらかすことで欲求を満たすその様は、陰でクラスの敵愾心を煽っていた。同じ勉学に励む人間でも、私とは対象的だった。私は、ただの成り行きで勉強が得意だっただけなのだが、自身の学を知らしめるなど無関心だ。しかし安原は、禍々しくも取り憑かれたように教師への発言を繰り返していた。

「うるせぇな」「少しは黙ってろよ」と、背後から益荒男(ますらお)達の憎悪がこだまする。ワイシャツをズボンから出し、赤や黒のインナーを透かせる、これまた感じの悪い、(かしま)しい連中だ。私に言わせれば、こいつらも安原も同じ穴の狢だというのに。

「おい、五月蝿(うるさ)いぞ。お前らはまずその服装から正せ!」

勉強熱心な安原君は、教師からすればお気に入りの優等生だ。私は特に教師から好かれていたわけでもないが、安原は主要五科目の教師からは好評だった。輩達は為す術なく舌打ちし、安原と教師を一瞥する他ないようだった。

 ところで、「益荒男」と「手弱女(たおやめ)」という言葉をご存知だろうか。益荒男は勇気ある強い男性、手弱女は優美で上品な女性を意味するという。殊に益荒男は、三島由紀夫の辞世の句の一つに掲げられた言葉として知る者も居るだろう。現代風に換言すれば男らしい男、女らしい女となるのだが、その定義に該当しない人物に名前を付すとしたら「手弱男(たおやお)」、「益荒女(ますらめ)」となろう。安原涼太は手弱男だったのである。彼は中学二年の一学期にして、益荒男達からの恰好の虐めの標的となった。

「おい安原、なんでボール取れねぇんだよ!」

「ちゃんと動けよ安原、死ね!」

「ぶっ殺すぞ!」

学業では立つ瀬のない益荒男達も体育の授業では無双していた。また、授業と授業の間の十分休憩でさえ学業に勤しむ安原に、背後からボールや濡れ雑巾を投げつけることも珍しくなかった。安原は早くも教室で居場所を失い、昼休みは図書室に逃げ込むようになる。私も友人という友人が居ないので、昼休みはよく図書室で文庫本を読んでいたものだった。教室という喧騒を離れ、落ち着いて自分の時間を過ごせる空間というのは、図書室くらいなのである。読書するもよし、疲れたら転寝するもよし、学校において最も人間らしく過ごせる、一日たった三十分足らずの穏やかな時間。

「ここに居たか、ガリ勉野郎!」

ところがある日、益荒男達が図書室に殴り込みにやって来て、室内に教師が居ないのを良いことに、机に向かって英単語の暗記に勤しむ安原の頭を引っ叩き、横から後ろから身体を小突き、ワイシャツの裾を引っ張り始めた。

「休み時間にまで勉強してんじゃねぇよ、キモいんだよ!」

なんとたちの悪い餓鬼だと、私も傍観しながら軽蔑したものだった。安原は為す術もなく椅子から引き摺り下ろされ、あろうことか英語の参考書を奪われ真っ二つに引き千切られていた。私は深く溜め息をついて、読み進めていた文庫本を閉じて机の上に無造作に放り投げる。肘を机に乗せ、人差し指をこめかみに当てがいながら俯き、口を紡ぎ、鼻で深く呼吸した。瞬く間に嵐が過ぎ去って、安原は両目を充血させていた。しかし、一滴も涙などこぼすまいと必死に堪え、床に散乱した参考書を一枚一枚拾い集めていた。

 私は、この中学男子特有の力の見せ付け合いには反吐が出る思いだった。安原は勉学で、益荒男達は身体能力、或いは女遊びで自己実現を果たし、自身の価値をこれでもかと誇示しているようだった。私には荒唐無稽なお遊びに思えてならないのだが、男子達はそうして男社会の頂点に君臨しようとあの手この手で競合していた。いや、小学校の頃から私以外の男子という生き物にはそうした特質が少なからずあった。しかし第二次性徴を迎え、テストステロンを分泌する頃合いに、男達の競合は激化の一途を辿った。男の階級社会で陥落すると這い上がれないのだ。安原は安原のやり方で、この競争社会の頂点に躍り出るべく最善を尽くしていただろう。しかし、周囲の男子の反感を買ったに過ぎず、そればかりか女子達からも忌避される存在に成り下がっていた。

「安原君ってさ、マジ嫌味だよね」

「ちょっと勉強が出来るからって良い気になっちゃって」

「ていうか、キモい」

私が中学時代に見てきたもの。それは、益荒男、益荒女、手弱女が挙って手弱男を詰るという地獄絵図であった。男子から蔑まれ、女子達からも怪訝な眼差しで見られ、教師以外に取り付く島も無かったであろう。それでも安原はめげず、孜孜(しし)として学問に勤しむことでのみ勇猛果敢に挑み続けていた。それでしか戦えないのだ。なんとも愚直でいじましい男だった。

「お前も、そんなに試験で点が取れるのなら、もっと授業で発言すれば良いじゃないか」

あの図書室騒動以来、安原とは次第に言葉を交わすようになった。通学路も同じで帰りを共にすることも多く、そんな中で安原によく言われたものだった。安原は、定期考査の得点こそ私に勝てずとも、教師からの評価が高いことを鼻にかけているようだった。こいつさえ居なければテストの得点でもトップに君臨出来たのに、と何度も思ったことだろう。競争に固執しない私は、安原にとっては異質であり、興味深い同級生だったようだ。安原は、自尊心だけは一丁前で、どんなに蔑まれても「成績も低いくせに」と一貫して周囲を見下していた。彼の価値基準は飽くまでも、国語・数学・英語・理科・社会の成績なのだ。この五科目における定期考査と通知表の数値こそ、安原が他人を判断する上での物差しなのである。安原は学年の中で唯一私を対等な目で見ているようだった。あの益荒男達のことも、安原は「あいつは数学が三〇点だった」、「あいつは不定詞も分かっていない」、「あいつが出来るのは体育と技術家庭だけ」など意固地なまでに徹底して蔑んでいた。

「俺、X学院、Y実業、Z高校を受験すると決めているんだ。絶対に全部合格してやる」

安原が志望するそれらの高校はこの当時、内申点は考慮されず、入学試験の点数で合否が決定される。安原は一貫してペーパーテスト主義、教科書人間だった。だから、実技四教科は(ことごと)く切り捨てていた。試験と関係がないから、その分は五教科の勉強に充てた方が合理的なのだ、と。

「お前もX学院、Y実業、Z高校を受験するんだろ? だったら実技教科なんかやらなくてもいいじゃないか」

余計なお世話もいいところである。私は、手前味噌だが実技科目もそれなりにこなしていたつもりだ。特に美術や家庭科は好きで、時々勉強の息抜きに絵を描いたり手料理を拵えたりしている。母親にも「あんたは料理の素質がある」と褒められたことだってあるのだ。それを軽んじるような言動は不愉快でならなかったが、下手に反論すると安原の機嫌を損ねるのでいつも聞き流すのであった。

(続く)

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