そうして一学期が過ぎ、夏休みが明け、二学期が始まったばかりの頃だった。
「なぁ、聞いたか? 吉井が夏休みに彼女とやったってよ」
他愛ない休み時間の会話だ。教室の後ろのロッカーに屯する男子達が痴話談義に花を咲かせる。中学二年にもなると、早熟な男女は一足先に秘密の契りを交わすこともあるようだった。平成中期の我が国に於ける性教育は、保健体育のカリキュラム上には仕組まれている。しかし、私がまともに性教育というものを受けたのは高校一年の頃で、中学の保健体育教師は触れることさえしなかった。大人達は中学生の性とどう向き合うべきか、距離を測りかねていたのだ。親はもとより教師も例外ではない。子供達の性の目覚めを直視したくないのであった。大人は得てして子供を子供のままにさせたがるものだ。中学生にして秘密裏に如何わしい情事に興味を抱く様など、まして、大人の目を盗んでその享楽を貪るなど想像したくない。愛する我が子がそれに関心を持つ姿さえ信じたくもないだろう。しかし、大人を尻目に子供達は自然の摂理に逆らえぬまま性に目覚めるのだった。教師が取り上げなくとも保健体育の教科書には如実に記されているからだ。「性交とは、勃起した男性のペニスを女性の膣に挿入する行為。性行為ともいう」、「コンドームとは、性交時に男性のペニスに装着するゴム状の避妊具(使用済みコンドームの写真付き)」、「射精とは、男性の性的快感がピークに達した時に、ペニスから精液を放出すること」等々。大人達が教えようが教えまいが子供らの覚醒は時間の問題だった。殊に中学の保健教科書に於いては、性行為は飲酒や喫煙と並んで踏み込んではならぬ聖域であった。「それは快楽のあとに後悔を伴って襲ってくる」とは、教科書に書かれていた文言だ。とりわけ避妊なしでの性行為の危険性を訴えているようだが、避妊有無に関わらず「性行為そのものが中学生に相応しくない」という無言の圧力をそこはかとなく漂わせていた。それでいて、「快楽」などと正々堂々明記してしまっているではないか。可笑しな話だと思ったものだった。これではますます子供達の関心を引くばかりである。年頃の中学生の性的好奇心を見くびってはならない。多くの男子が女性との契りによって得られる享楽を思い、若くしてその境地に辿り着いてしまう中学生も少なからず存在しているのだから。
ところで私は単刀直入に申し上げると、この手の性的欲求、即ちリビドーというものが欠如している人間らしい。同性異性に関わらず、性的な接触に無頓着なのだ。風変わりと思うだろうか。いや、これまでの生涯で嘲笑されたことも少なくはない。しかし、唆らないものは唆らないのだから仕方がないのだ。異性を想うことなく、同性も想うことなく、どちらでもない性別の人間を想う事もないし、性への欲求も無い。この当時は、こんな私にも心の片隅にはリビドーなるものが存在し、いずれは好きな相手と身体を交わすのだろうかと悠長に構えていた。しかし、三十代を迎えた今現在も尚変わることはない。私は、周囲の人物と比して欲望の均衡が特異のようだ。念のために申し上げるが、私はそんな私の性的指向に劣等感を抱いているわけではあるまい。また、他人に興味が無い、他人への思い遣りが無いと誤解されるのも不愉快極まりない。ただ偏にリビドーが無いという純然たる事実が存在するに過ぎない。
そんな私だが、性に纏わる愉しみというものがある。それは、性に翻弄される人々を丹念に観察することだ。私にとって同級生の男達など、宛ら動物園の肉食獣と同等だ。いや、動物園なんかよりも一層愉快なサファリパークに毎日無料で居座らせてもらっているようなものだ。男達は、一足先に向こう岸へと泳ぎ切った吉井遼也という男子生徒に釘付けであった。
「気持ちよかったか?」
「オナニーよりも気持ち良いのか?」
「彼女もイカせたか?」
吉井の周りに集うのは、いずれも男子社会の枢要な地位に居る者、即ち益荒男ばかりだ。瞳孔を見開いた男達を、吉井は「うるせぇ」と一蹴する。しかし、満更でもない吉井の表情を私は看過しない。この吉井遼也という人物は小学校からの同級生で、差して会話はしていないが一応面識はある。小学校高学年にもなると、気になる異性という概念を多くの児童が知ることになるわけだが、この吉井は女子児童から興味深い存在として人気を博しているようだった。私と吉井は小学校時代、同じ少年サッカーチームの一員であった。私は親に勧められた成り行きでチームに属していたに過ぎず、ワールドカップやオリンピックの中継なんかも読書しつつ傍観する程度のものだったが、吉井は当時からサッカーに夢中で、衆に擢んでた実力の持ち主であった。そんな吉井に群がる女子児童は多く、試合ともなればグラウンドに何人かの同級生が見物に駆け付けるのだ。それを傍観する私はいつも仏頂面だった。普段教室で顔を付け合わせているくせに、何故こんなところまで見物に来るのか。何より、周りの私達は吉井の引き立てか。私は吉井という男がいけ好かない。あの男は漁食家の素質があった。私は当時からそれを見抜いていた。きゃーきゃーと騒ぐ女の子達を前に、「うっせぇな」と一瞥しながらも、その顔には照れ隠しが垣間見える。バレンタインなんか、何人もの女子からチョコレートを手渡されるのだった。私はチョコなんか義理でさえ貰ったことはない。受け取りたいと望んだこともないのでどうでも良いのだが、吉井は自身が異性から支持されていることを内心では誇っており、周りの男子を小馬鹿にする雰囲気をも纏わせる、心底鼻持ちならぬ男だった。こいつはきっと将来多くの女を誑かすであろうと何度侮蔑したことか。案の定、吉井は中学二年の六月に交際にあり付いたらしかった。そして、ものの一ヶ月後に初体験なるものを済ませ、その年の夏休みは部活の合間に互いの自室で、或いは屋外で週に三、四回ほどの頻度で性交に励んだようだ。
しかし、そんな吉井に強烈な眼差しを向ける人物が居た。安原だった。性の境地を悟った吉井と、それを取り巻く男性陣の会話に聞き耳を立てて紅潮しているのが分かる。それは羨望か、嫉妬か、憎悪か。その瞳は血走っていた。あの勉強一筋な安原にもそうした側面があるとは意外である。期末考査で如何にして鼻を明かすか、如何にして自身の博識を同級生に知らしめるか、それにしか拘泥せぬ男だと思っていた。安原も、保健の教科書を一読し、後悔を伴うかもしれぬ快楽にやり場なき感情を抱くのだろうか。
「なあ、今日の吉井の話、お前も聞いたか?」
「ああ、あの話?」
安原とは、下校中にその日の出来事なんかを二人で語らったものだった。その日は、やはり吉井の性体験が安原を猛烈なまでに惹きつけたようだ。
「まあ、避妊してるんなら勝手にすれば良いでしょ」
「俺は納得出来ないね」
安原は靴音をアスファルトに響かせ、緩みかけていたネクタイを締め直す。彼の歩行は速まり、私もそれに呼応する。
「何であんな奴が女子に持て囃されて、彼女を作ってセックス出来るっていうんだ?」
安原は常日頃、ことある毎に吉井から揶揄されていた。虐めの加害者の一人である。授業で積極的に発言する安原に「黙ってろよ」などと罵声を浴びせる人物だった。図書室に乗り込んできたうちの一人でもある。益荒男の中心核、がらっぱちな男。その日の体育の授業でも、安原に対し「ちゃんと動けよ!」と言い放ちサッカーボールを空高く蹴り上げ、安原は歯を食いしばっていた。
「あいつは成績も低いし、授業態度も悪いし、制服だって見たろ。ワイシャツもズボンから出して、第二ボタンまで開けて、下に黒いシャツなんか着やがって、校則もへったくれもないような奴だ。あいつのどこが良いっていうんだ?」
私は、歩行はそのままに姿勢を正し、口で深く息を吸い、鼻からゆっくりと吐き、腕を組んで晴れた空を見上げた。返す言葉を探ってみる。安原は両目を見開いて私を見つめていた。私は思い浮かぶ言葉の端々を飲み込むことしか出来ない。安原が前のめりになって私を見つめた。私は左唇を歪め、安原に気付かれぬように流し目で視線を送ってみる。中学生の世界線なんてそんなものだ。規則を破るのが格好良いと捉える人間なんか五万といるのだ。そして、スポーツに勤しみ、その場の空気を察知出来る男子が支持され易い程度には浅ましい社会だ。身体能力で競い合う男達は勝者として君臨することを目指す。そんな風にしてテストステロンを分泌する男の子に女の子が憧れるなど、小学校の頃から分かり切っている、周知の事実ではないか。
「まあ、そうだね。あいつの何が良いのか、僕にも分からん」
「そうだ、そうなんだよ! 学生の本分は勉強だろう。ルールを守って何が悪いっていうんだ。あんな性悪男が何で人気なのか、全然理解出来ないよ」
大股な安原の歩行がますます速まる。その減らず口は止まるところを知らなかった。閑静な住宅街に安原の咆哮だけが轟いている。私は虚ろな目をしていたと思う。安原は何も間違ってはいなかった。寧ろ間違っているのは吉井であることは私も同感だ。だが、この理不尽こそ中学生の世界だ。男には男の、女には女の階級社会がある。それは年齢を重ねるごとに醸成され、層をなしていくものだ。男は生まれながらにして弱肉強食な階級社会の一員だ。結局は生物学的に強い男が最後に勝つ。中学生にもなれば自明の理でなくてはならない。安原はその理不尽に向き合うことを頑なに拒んでいるようで、それが意地らしかった。
「こんなの絶対間違っている。俺は俺のやり方でのし上がるつもりだ」
「のし上がるって、どうなりたいの?」
「偉くなるってことだよ!」
なんと野心家でくだらない男なのだろう。私は思わず鼻で笑いそうになるのを抑え、また一息ついて呼吸を整えた。安原は立派な社会人になって、男社会の頂点に君臨する男になりたいというのだろうか。その体たらくで実にくだらない、しかし魅惑的な男だった。
「まあ、頑張れば?」
「お前はそういう願望とかないのか。俺よりテストの成績高いのに」
「まあ、あるがままでいいかな」
「本当に変わった奴だ」
安原はいつも、競争から逸脱する私を内心では見下している。何故こんな奴にテストで勝てないのか、何故こいつは頭が良いのにそんなにも無私無欲なのか。安原にとって私はさぞ理解不能で、しかし興味深い男だったろう。
(続く)
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