中学二年の春休みにこんなことがあった。私は初めて安原の家に足を踏み入れたのだ。安原の家は私の家から徒歩で三分ほど。外環自動車道の大泉ジャンクションから程近くであった。安原に一緒に勉強しようと声をかけられた私は、難関高であるX学院、Y実業、Z高等学校などの過去問を持ち寄り、安原宅にお邪魔したのだ。勉強なんか一人でやるものだし内心億劫ではあったのだが、安原の育った環境というものを垣間見たい衝動に駆られた。ベージュの壁に黒い屋根、外観は何の変哲もない一軒家だ。
「あなたが涼太のお友達ね。どうぞ」
焦茶色の扉が開き、少々気怠そうな母親が顔を出す。真っ赤なジャケットと厚化粧。私はてっきり、教育熱心な俗物が出て来ると思い込んでいたので、些か拍子抜けさせられた。安原は父親に似たのかもしれない。玄関に促されるや否や、如何にも人工的で甘ったるい匂いが鼻についた。それは靴箱の上に置かれているローズのアロマディフューザーだった。そこらのドラッグストアで購入した安物に違いない。玄関の壁に飾られているチューリップの絵も恐らく廉価品だ。私は中学生ながらこの家の感性を疑ったものだった。安原の美的感覚の欠乏は親譲りなのだろう。手を洗わせてもらい、トイレを借りようと申し出ると、すかさず安原に「便座が壊れているから気を付けて」と忠告される。確かに安原家の便所は壊れていた。便座が外れてがたがたしている。これでは落ち着いて座って用を足すのもままならないのでは、と安原に耳打ちしてみると、「修理するったってお金が掛かるじゃないか」と一蹴された。安原家は標準的な3LDKで、一階はリビング、ダイニング、キッチン、バストイレ、階段を昇ると夫婦の寝室、父親の書斎、息子の部屋という造りになっている。安原の部屋で黙々と過去問を解き進める最中、不意に彼が立ち上がり、私にあるものを差し出した。
「これ、見てくれよ」
徐に何を取り出すのかと思いきや、ドラッグストアで買ったと思われる安価な染髪剤だった。それも、眩いばかりの金色だ。こいつは気でも狂ったのだろうか。もうすぐ中学三年、我々は受験生だ。そんな大事な時期に、校則違反である筈の染髪を施そうとでもいうのか。
「それ、いつ使うの?」
「いや、決めてない」
「決めてないのになんで買ったのさ」
「いや、だって、憧れるだろ。こういうの」
中学二年の夏休みに、色気づいた生徒の何名かは「夏休み限定」という大義名分の元に、髪を茶色に染め上げていた。あの吉井を含め男女数名である。主にはあまり治安のよろしくない連中で、夏休みの終盤には黒に戻すのだが、脱色で僅かに赤くなっている髪を見て、「バレていないつもりか」と心中で嘲笑ったものである。安原はいつだって、羽目を外す頃合いを見計らっているのだった。校則を遵守し、愚直なほど学業に勤しむ反面、彼の心は疼いている。吉井達のように益荒男になりたいという渇望を捨て切れないのであった。すかした男にでもなって女を誑かしたいのだろうか。
「もう一つ、これ何だか分かるか?」
「あんた、それ煙草じゃないか。まさか吸ったのか? どこで買ったんだよ、犯罪じゃないか」
「まさか、吸ってないよ。この煙草の箱は道端で拾ったんだ」
いい加減に辟易させられた。国語の読解問題を読み進めているというのに、これでは妨害だ。やはり家で、一人で勉強すべきであった。しかし周りも顧みず、道端に落ちていた煙草の箱を我が物顔で手に取る安原の顔が脳裏を過る。その煙草の箱には「バージニア・エス」と書かれていた。不良中学生の振る舞いをして自分自身を満たし、さぞ快感だったろう。
母親の足音を察知した安原が、慌てて不良用具を引き出しに匿う。その無様な所作が目に余る。
「お昼ご飯の準備が出来たけど、あなたも食べる?」
わざわざご用意頂いた昼食をお断りするのも憚られる。私は快諾し、一階のリビングに降りる。焼いていない食パン一枚にジャム、見るからに余り物の、残りかす野菜の具材しかない野菜スープ。私は自らの目を疑った。中学生とはいえ、お客相手にこの饗しとは随分と舐められたものではないか。この食パンだって、八枚切りの薄っぺらい食パンなのだ。
「安原の家は八枚切り派なんだね。パンは焼かないんだ」
なるべく嫌味にならないよう、そっと耳打ちしてみる。
「八枚切りの方が経済的だろう。それにトースターを使ったら電気代が掛かるからね。父さんもよく言っているよ」
安原は何の疑いもなく即答する。私は、キッチンに丁寧に床置きされている無数のビール瓶に興味を惹かれていた。父親が晩酌をしているのだろうか。それにしたって一週間で飲み切れるとは思えない本数なのだ。当時の私は、それの意味するところが分からなかった。後年判明したのだが、彼の両親はビール瓶をまとめて酒屋に売却し、そうして貯めた小銭を札へと逆両替していたのだという。あの家に漂っていた並々ならぬ妖気の正体が今となっては分かる。あの家は、清楚と見せかけて吝嗇の匂いが其処彼処に漂っていた。修理代を出し渋って放置されている壊れた便座、ヒビが入ったままの窓ガラスなどがそれを物語っている。守銭奴の家。塵一つないほど清潔で、トースターの電気代を倹約する割に晩酌している程度には経済観念が歪に発達していた。この類稀なる遺伝子は、息子の涼太にも脈々と受け継がれることとなるのだ。
その日の夜のことである。安原から私の携帯に着信があった。安原は携帯電話を所持していなかったから、自宅の固定電話から繋いでいるのであろう。時刻は夜九時を回っていたのだが、こんな時間に何の用だというのか。今度はアダルトビデオを買ったなどと要らぬ知らせを寄越すつもりか。
「母さんが、お前に話があるって」
あの母親が私に何の用だというのか。違和感を覚えつつ、断ることも出来ず母親に代わるよう促した。
「もしもし、今日はどうも」
「あ、こんばんは」
「もううちの息子と関わるのは止めてもらえないかしら」
「はい?」
意表を突かれた。何を言い出すかと思いきや絶交宣言だ。それも、本人からではなく母親からだ。さすがの私も、「分かりました」と即答出来る器量は持ち合わせていない。「どうしてですか?」と聞き返すよりも先に、母親が厭に流暢な語り口で話を進めた。
「あなたには失望しているのよ。あなたは、うちの涼太よりも成績が良いと聞いていたけれど。あなたは、確かに頭は良いかもしれないけれど、野心が著しく欠けているのよ」
あの母親から、妙に根掘り葉掘り尋ねられたのを思い出した。父親は何の仕事をしている、なぜX学院やZ高校を志望するのか、将来は何になりたいのか……。事前に雛形でも用意しているのか、事務作業的に質問を連発するその様には違和感を覚えたもので、面接模擬試験かと思う程だった。何かを試されている。母親は、家の中だというのに真っ赤なジャケットを羽織り、妙な厚化粧がその異様さを物語っていた。私の予感は的中したのだ。
「あなたはうちの涼太に良い影響を与えないわ。だから今後、涼太には話しかけないでね。涼太にも、あなたとは話さないように伝えておくので。それでは」
一方的な絶縁だ。さすがの私も憤りを感じずにはいられなかった。本人からでなく、親からなのだ。あの親は、涼太のお眼鏡に適う友人を家に招かせて篩にかけているのだった。とにかく不愉快だ。
「安原、この間のお母さんからの電話だけど、あれ何?」
中学三年に進級し、昨年に引き続き奇しくも安原と同じ学級となった私は、どうしても腑に落ちない母親からの絶交について尋問することにした。新学期一日目のことである。
「……」
安原からの応答はない。なるほど、こいつは母親からの忠告に従おうとしているのだ。その後、何度か質問しても断固として私に視線すら向けず、まるで私が存在しないかのように振る舞う。私もこの時ばかりは安原の机を叩き付けた。
「安原がそんな態度ならもういい。良い歳こいて母親の言いなりか。そんなんだからモテないんだよ!」
目線を逸らす安原は口元を歪ませていた。ざまあ見ろ。母親の教えに逆らえない彼は、私の捨て台詞をどのような思いで噛み締めたことか。結局安原とは、中学卒業まで口を聞くことはなかった。再び言葉を交わしたのは翌年四月、Z高校入学式当日であった。
(続く)
コメント