手弱男(たおやお)と作法 vol.7 – 宮田涼介

手弱男と作法(宮田涼介)

 私と涼太の進学先であるZ高校は、神奈川県横浜市に位置する男子校である。東急東横線H駅前の横断歩道を渡り、銀杏並木を登り切って右手に校舎が見える。入学式当日、私は練馬区からはるばる横浜市まで電車で移動し、H駅前の銀杏並木を歩む。(みだ)りに放蕩(ほうとう)(ほしいまま)にしなければ名門私大であるZ大学への進学は確約されていた。この銀杏並木を登る多くの新入生は、これからの三年間に期待に胸を膨らませているだろう。将来の夢に向けて勉学に励むもよし、部活動に勤しむもよし、あとはZ高校というブランドを武器に女子高生と遊び倒せるなど、淡い幻想に躍起する者も居たかもしれない。私は特段期待も不安もなく、それよりもこの長い通学経路が億劫で仕方がない。片道移動だけで映画一本は観られるであろう。そのような長時間を移動だけに費やすのは気が進まなかった。部活動も入るつもりはない。中学まで続けたサッカーだが、Z高校のサッカー部は土日も練習ということで、折角の土日さえこの移動に貴重な時間を搾取されるなど真っ平御免だ。帰宅部で何か新しい趣味でも探せば良かろう。

 Z高校は、一学年なんと七百人、クラスはA組からR組までという国内有数のマンモス校だった。銀杏並木を登り切って右手に見える白亜の建物が校舎である。その荘厳な佇まいは、私にとっては少々息詰まるものだった。入学試験の時から感じていた、どこか空気の滞ったようなあの閉塞感。第一志望であったX学院は不合格、第二志望であったこのZ高校へと進学を決めたのである。私のクラスは一年N組。そして安原涼太は一年A組。十八学級もあると流石に同じ教室になるということはなかった。涼太のZ高校進学を知ったのは、入学前の事前説明会の時であった。各学級の名簿が校舎内の壁に掲示され、それとなく眺めていたところ、A組に涼太の名を発見した。そしてその夜、涼太の自宅から私の携帯に電話があった。あの母親の目を忍んでこっそり私に連絡を寄越したのだ。

「中学の時は、色々と済まなかった。入学式の日、よかったら一緒に帰らないか?」

先方からの謝罪を受け、私としても意固地になるつもりはなく、快諾した。その数日後、入学式終わりにH駅前で涼太と落ち合う。私は、右も左も分からぬこの新世界で、同郷の知人が存在する心強さ、同時にこの腐れ縁が大学まで続くのだろうかというもどかしさで揺れ動いていた。涼太は、自宅から自転車圏内のX学院、また高倍率の難関高であるY実業に合格しておきながらも、それを蹴ってZ高校へと進学していた。私は、涼太のX学院合格は風の噂で聞いていたので、てっきりX学院に進学すると思っていたのだが、まさかこのZ高校を選択するとは。しかし、何故あいつがX学院を蹴ったのかなど愚問である。その理由など明白である。Z高校の方が、女受けがいいからだ。Z高校は男子校だが、その伝統的なブランド力から多くの女性を惹きつけるのだ。Z大学なんて、「モテる大学ランキング」などという荒唐無稽な格付けで一位に躍り出るほどだ。世間一般のZ大学に対する印象が余りにも偏っているのだ。実際には、その理想に適う学生など一部に過ぎないというのに。この偏見じみた印象操作のせいでZ大学在校生が潜在的に持っている多様な価値観が排斥されているのだ。私を含むその他の有象無象が掻き消されているという事実は、可笑しな話であると同時に不憫ともいうべきである。学校名で人物像など括れる訳が無い。所詮は世間が勝手に期待した幻想なのだ。しかし、あれほど性に翻弄され、幾度唇を噛んだか知れぬほど吉井を妬み、その性行為をやっかんだか知れたものではない涼太が、このZブランドに囚われて進学を決める姿は容易に想像出来る。女の子の居ない男子校とはいえ、そんな涼太が敢えてZ高校を選んだ心理など私には手に取るように分かるのだ。

「お前、部活はどうする?」

「多分入んないよ」

「サッカーは続けないのか? 俺、サッカー部にしようと思っているんだけど」

運動神経の欠片も無い涼太がサッカー部なんて意外、とは思わない。どうせあのサッカー部キャプテンであり益荒男でもある、吉井への嫉妬が頂点に達しているだけだ。サッカーをやれば吉井みたいになれるだとか、吉井になったような気分で悦に浸りたいとか、その程度のものだろう。やめておいた方がいいぞ、Z高校のサッカー部は強豪らしいので、練習は厳しいだろうし、あんたの曲がった根性で務まるわけないぞ、という喉に(つか)える言葉の端々を私はどうにか呑み込んだ。入学早々、涼太の神経を逆撫でするつもりもないし、ここは一つ黙って見届けていれば良い。

「ところで、涼太は目指している学部はあるの?」

「俺は法学部法律学科にしようと思う」

Z大学は当時花形と言われていた経済学部を筆頭に、法学部、商学部、文学部、理工学部、医学部など多くの学部が存在するが、どこの学部に進学するかは本人の希望を基に成績順で決定される。涼太の志望する法学部法律学科に進学するには、三年間で成績上位に食い込むことが必要となる。

「法律学科に進んで、司法試験に受かって弁護士になる。昨日、親に頼んで六法も買ってもらった」

私なんかと比べても大層な夢を持つ男だった。こんな野心を私も規範にしたいと思ったものだ。帰りの山手線、池袋駅での乗り換えの最中、会話の種が尽きて何度か気まずい空気が流れる。よもや、これから毎日一緒に登下校しようなどと言い出すのではないか。

「じゃあ、これからもよろしくな」

幸い、それは私の杞憂だったようだ。私の高校生活は順風満帆でも獣道でもなく、とりあえず中学からの惰性で勉学だけは怠らず、しかし部活には属せず、絵描きという新たな趣味に夜な夜な励んでいた。当時、Z高校に美術部はなく、私は池袋駅の書店で教則本を購入し、人知れずデッサンなどの練習に時間を費やす。六時限目終わりに猪一番に教室を撤収するのが日課で、友人も居らず、放課後の人付き合いなんてものも三年間で一度も無かった。両親はそんな私の高校生活を見かねたのか、「あんた、友達は居ないの?」、「折角Z高校に入ったんだから、今のうちから人脈作っておきなさいよ。社会に出て役に立つから」と口酸っぱく説教されたものだ。一方の涼太は、兼ねてからの宣言通りサッカー部に入学したと聞いた。入学式以降、涼太と顔をつけ合わせることもなかった。私と涼太は教室も離れており、同郷だろうとすれ違うことさえないのだ。そんな涼太だが、七月の夏休み前にはサッカー部を退部したと聞いた。週に七日、土日返上で往復三時間電車移動の日々は堪えたのだろう。大体、彼に運動の素養は無い。中学時代だって、主要五科目ではオール「5」でも実技四教科は「3」、殊に体育と美術は「2」もざらだった涼太だ。そんな彼が、経験者も多かろうサッカー部に今更入ったところで高が知れている。涼太はZ高校で、寄るべき価値観を見失い狼狽えていたのだろう。学業の面で威厳を見せつけることさえ叶わないからだ。中学時代は学業で頂点を争った涼太であるが、ここZ高校では同じような水準の高校生が各地域から集結する。無論、これまでのように勉学で威張り散らすことは出来ないのだ。そして何よりも、涼太はZ高校に進学しても尚、女の子が寄り付かぬ喪男から抜け出せていないのだ。結局彼は中学時代と変わらず手弱男(たおやお)だった。それを象徴したのがZ高校文化祭である。Z高校文化祭、私はあの行事を思い返すだけで未だに虫唾が走る。

「お前、今度の文化祭は行くよな?」

「ああ、出席も取るっていうからね。一人でふらふらしようと思うよ」

「そうか」

「涼太はどうするの?」

「俺は勿論行くよ」

この絶好の機会をあの涼太が逃す筈がないのだ。女子に飢えた男子校の野郎が、Zブランドを武器にその肉欲を一斉に解き放つのだ。文化祭が近づくにつれて、一部の遊び人風の同級生は髪を染め上げる。「独立精神」を謳うZ高校の校則は無いに等しく、原則として生徒の自主性を重んじているのだが、その自由を逆手に取って思い思いに頭髪をデザインする。明らかに似合わぬ金髪、銀髪、ひいては青髪、緑髪、またドレッドヘアーを施す者も少なからず存在した。そんなもの似合わないよ、かえって女の子が恐れ慄くだけだと何度思ったことか分からないが決して口には出さない。これがZ高校文化祭シーズン特有の集団催眠である。何にせよ、私は性に飢えた男達を観察するのを好む人間だ。これこそまさに、私が夢にまで見た博覧会。どんな遊園地より愉快なアミューズメントパークなのだ。奴らは野放しにしておいて好き放題にさせるのが得策である。皆、これから出会える女の子達に思いを馳せて目が眩んでいる。これほど男子校に入って間違いなかったと思ったことはない。

「なあ、皆金髪にしたりパーマかけたりしていて、お前はどう思う?」

「どいつもこいつも全然似合わないね。よくあんなのやろうと思ったもんだ。でも涼太、あんたは彼女欲しいんでしょ?」

「まあ……。でも染めたりなんかしたら親に殺されるよ」

「ウィッグっていう手があるでしょうが」

私の中で邪な何かが疼いてしまった。取り繕っていたって、所詮こいつも色情に躍らされているだけのくだらぬ人間だ。文化祭を目前に控える今、躍起する涼太を掌で転がすなど容易いものだ。

「あんた、いつぞや僕に見せつけてきた染髪剤、覚えてるよね。涼太だって本当は染めたいんだろ?」

「ああ、今でも棚にしまってある」

「頭を使いなよ、染められないなら被れば良い。似合うやつを被っておけば違和感もないだろうよ」

「そんなに上手くいくもんかな?」

「上手く行くも何も、彼女を作りたいなら派手に格好付けている奴らに引けを取らないくらいでないといけないでしょ。涼太よ、今度の文化祭を逃したら一年間女の子と話すチャンスさえ無くなるんだぞ。あんた、常日頃母親以外の女性と口聞いてないんでしょ?」

「……」

「やらない後悔よりやって後悔だ。僕から言えるのはそれくらいだ。しっかりやれよ、健闘を祈る」

(続く)

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