手弱男(たおやお)と作法 vol.9 – 宮田涼介

手弱男と作法(宮田涼介)

 私は不意に、中学の時に読んだ保健の教科書を思い出す。性行為についての記載だった。「子孫を残すための行為が苦痛を伴うものなら、その生物は滅びる。だから、神はその行為に快楽を与えた」と。私はつくづく思う。この世に「神性なる領域」というものが存在するとしたら、男にとって最も身近なそれは性行為の享楽である。時間、空間を超越した普遍なる快楽だからこそ、人類は今日まで子孫を繋ぎ、生き永らえたのではないかと。そして、時間、空間を超越したものである以上、我々人間が本来それを知ることは出来ない筈なのだ。神というものは時間空間を越えた存在なのだから、時間空間の中で生きる我々がそれを知覚することは不可能である。しかし、例えば意中の女性と情事を交わす時、確かに男はそれを体験し、知覚している。性行為に於いてのみ、男は時間空間を超越した聖域に到達する。皆、神性領域を知る為に、一心不乱にその行為に励み、そうして昇り詰めた瞬間にだけ男は、人の形をした人間以外の何かに成り果てる。それは天使か、悪魔か、聖獣か……。そう、何れにしてもその刹那だけだ。それが過ぎ去ってしまえば、男はれっきとした時間空間の中に存在しているから、神性なるそれを知ることも想像することも出来ぬ身体に戻ってしまう。だから男達は一度に飽き足らず性懲りも無く、何度でも人間を超えようとする。更に人間を超えた男は、どんなに澄ました顔をしていても、得てして人間を超えられない男を見下し、反対に人間を超えられない男は人間を超えたことのある男を羨望する。聖域への暴漢的到達を果たした優越感が、このような歪な構造を生み出している。男子校に居ると、そんな現実をまざまざと見せつけられる。あの吉井遼也だって、「昨日は生でした」と自慢げに言っていた同級生だって、瞬間的、暴漢的に人間を超出したに違いない。奴らには白い翼が生えていたか、天使の輪を頭上に作っていたか、ユニコーンのように角が生えていただろう。当の本人は何にも気が付いていないのに。涼太と顔をつけ合わせる最中、不意にその様を想像し、思わず笑いが込み上げてしまい、手で顔を覆う。

「お前、何が可笑しいんだ?」

「いや、何でもない」

流石の私も満腹だ。高校一年から培った画力を解放する時がそろそろやって来た。放水の時は着実に近づいているのだ。こんな作品を涼太に見せたらきっと発狂する。だから、こいつにだけは金を貰ったって私の作品を披露するつもりは無い。

「まあ、お前はお前で楽しくやってそうだな」

「涼太はどうなんだ?」

「聞かなくても分かっているくせに。俺の噂はお前だって聞いているだろう?」

咄嗟に否定しかけたが、言葉を飲んで敢えて暫く黙り込んだ。こいつとは中学からの(よしみ)だ。そんな社交辞令よりも、今日は涼太の不平不満を聞いてやる方が得策だろう。

「どうなんだって、最悪だ。最悪も最悪だよ」

入学式のあの日、涼太の瞳は希望に満ちていた。これから訪れる三年間の日々をどれだけ夢見ていたことか。しかし、その光は消え失せ、ぎらついた眼で私を睨む。その表情は憤りと妬みで震えていた。あらゆる憎悪を吸収し、屈辱の涙さえ溢れそうなほど震え上がっていたのだ。そして言葉を詰まらせながら私に打ち明けた。

「中学よりは物分かりの良い奴らだろうと信じた俺が馬鹿だった。Z高校に入ったって何も変わりはしなかった。いや、状況はますます悪い方向へ向かっていると言っていい。お前だって分かるだろう。結局、運動部の体育会系か不良でないと女の子と話すことさえ出来ないじゃないか。何が『Zブランド』だ。この三年間、彼女どころか友達も出来ない、それどころか俺に関する風評のせいで、みんな俺から目を逸らすか、後ろ指をさすかのどちらかだ。あんな学校入るんじゃなかった。こんなことになるって分かっていれば共学にでも行っていたよ」

「共学に行っていれば彼女が出来たと思うのか、そのひん曲がった根性でさ。あんたは中学時代だって女子に見向きもされなかったじゃないか」

卑しさと憔悴に満ちた涼太の言葉の端々に辟易した私は、不意に彼を論破しようとしていた。減らず口を叩こうと結局は、暴漢になれない男が暴漢になったことのある男に嫉妬しているだけだ。暫く顔を合わせないうちに、Z高校という辺境の地で打ち負かされた涼太は些か偏屈な男へ変貌を遂げていた。

「共学で彼女が出来ていたかどうかは分からない」

「まあ、言いたいことは分かったけど、卑屈過ぎないか。女の子と付き合えないのがそんなに不満だって言っているのか?」

恋愛に拘らない私であるが、涼太の言葉を聞くと、私まで劣っているという錯覚に陥る。涼太は私を「野心のない奴め」と軽蔑しているようで、滑稽であると当時に腹立たしくもあった。

「何も分かってないな、お前。俺は別に、彼女が欲しいわけでもないし、セックスに興味があるわけでもないんだ」

「はあ? だって、今さっき——」

「一年の頃のZ高校文化祭では血迷ったけど、最近になって漸く気が付いたよ。俺は、クラスで威張っているような男が憎い、男子だけの社会が憎い、それだけだってことにな。俺は将来に向けて勉強だって真面目にやって来たし、少なくともちゃらちゃら遊んでいる奴らよりは頑張って来たつもりだし、人に対して『死ね』とか『ぶっ殺す』とか汚い言葉を吐き捨てるような人間でもない。それなのに、そういう奴らの方がクラスを牛耳っているんだ。おかしいと思わないか? ちゃらちゃら遊び呆けたり、成績も不振で他人に対して意図も容易に『死ね』とか平気で言える奴の方が優位なんだってよ。お前だってあの学校に居るんだから分かるだろう。おかしいと思うだろう?」

涼太はもう制御不能だ。この時ばかりは私も彼を止められなかった。彼の色眼鏡に生返事で同意してやるも、彼を救う手立てが分からない。この偏屈な階級社会を直視することこそが社会を知るということなのに。学校の階級社会などきっと序の口だ。もっと壮絶な競争、理不尽な階級が社会では立ち塞がっているかもしれないのだから。

「今となっては分かるよ。Zブランドなんて初めから無かったんだ。あんなものは世間が勝手に作ったものだったんだ。一部の勝ち組だけがその恩恵に肖っているんだ」

今更何を分かりきったことを言っているのだ。そんなもの、私はZ高校に入学する前から気が付いていた。馬鹿も休み休みに言ってくれ。これ以上私を失笑させないでもらいたい。涼太の、慧眼をもって森羅万象を見極めることを拒む性分に(ほとほと)疲弊した私は話題を変えてみることにした。

「そういえば、勉強の方はどうなのさ。法学部には行けそうなのか?」

「ああ、行けそうだ。法学部法律学科に。それだけが救いだ」

「じゃあ、大学に行ったら司法試験に向けて勉強するんだね」

「その通りだ。司法試験に受かって弁護士になる。俺の今までの生き方が正しかったことを証明する」

「どうやって証明するんだ?」

「弁護士になって、仕事で成果を出し、悪い奴らを制裁する。口で言っても通じないような連中を、有無をも言わせず、力ずくで制裁してやる。それだけだ。その過程で良い奥さんを見つけて、家庭を築けるだろう。家族皆で幸せになってみせる」

今日の会話で漸く前向きな展望を彼の口から聞くことが出来た。それだけの野望が彼を突き動かしているのだから、私なんかより彼の将来は安泰かもしれない。「力ずくで」その夢を掴み取るが良い。

「まあ、頑張れや」

「お前、いつも他人事みたいな生返事だよな。自分だって三年間、女の子と口も聞いていないくせに」 私はもう涼太のぼやきは馬耳東風だった。しかし、人生を謳歌出来る頃合いなど人それぞれなのだ。何を以って謳歌しているかなど自分で定義付ければ良いことだ。他人なんかとむやみに比べず、涼太は涼太のペースで幸福を掴めば良いのだ。涼太は助走期間が長いだけで、きっといつかは理想の自分を手に入れる。この当時はそう思ったものだった。

(続く)

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