そうして、涼太の療養生活はここ逗子にて幕を開けることとなった。私という同居人が居ることで幾分気は紛れたらしいが、その体調にはかなり浮き沈みのある様子だった。酷い時は布団から起き上がることさえ儘ならないようだった。私の拵えた手料理も食べる気が起きず、話しかけてみても声さえ絞り出せず虚空を見つめるのであった。あの強気だった涼太をこのような廃人に陥れるとは。会社員とはどのような生活なのだろう。私にはお勤め経験が無いから、サラリーマンの負荷を窺い知ることが出来ない。しかし。およそ五年間の社会人生活で心身もろとも完膚なきまでに打ちのめされたに違いない。
「涼太、入るよ?」
「……」
「一応、ご飯作ったんだけど、食べない?」
「……」
「まあ、食べたくなったら食べなよ。冷蔵庫に入れて置くから、温めて食べておいてよ?」
良い気味だ、実に良い気味だ。これが「司法試験に受かって弁護士になる。俺の生き方が正しいことを証明する!」などと謳った男の成れの果てか。どうにか上場企業への切符を手に入れ、一度は夢に一歩近づいただろうに。掛かりつけの医院は逗子駅前のロータリー沿いにひっそりと佇む心療内科だ。涼太の心身が思わしくない時には私も付き添う。平日でも待ち時間は一時間ほどかかる場合もある。待合室で屍のように微動だにしない涼太を置いてきぼりにして、私は小一時間ばかり例の西洋菓子店で珈琲など嗜みつつ、ラップトップを広げ成人向け漫画の筆を進める。液晶画面は覗き見防止のフィルターを貼っているから、人目も憚らず女性器だって臆することなく描く。無論、私にもそうした類の経験はないわけだが、インターネット上に転がり落ちている無修正動画で勉強はしているのだ。誤った描写で「この作者は童貞か」と要らぬ罵りを喰らわされるのは心外なので、そこは割り切って学習しているつもりである。そうしているうちに涼太から「薬買ったけど」と連絡が来る。切りが悪い時は二十分ほど引き続き作業を続けることもあるが、頃合いを見て涼太の待つ薬局へと足早に向かう。
「なかなか薬が減らない。俺に死ねと言っているのか、この薬の量」
独り言をぼやく涼太に生返事で頷いてみる。昼食を摂る気力がありそうだったので、逗子・葉山駅近くのランチ営業をしている地元で有名な居酒屋で、鮪の刺身定食に舌鼓を打つ。栄養不足で死なれてはたまったものではないので、彼が食欲を示した時は、自炊でも外食でもなるべく健康的な食事を与える。鮪でドコサヘキサエン酸を摂取してもらい、漬物、お味噌汁でバランス良く身体の調子を整えてもらわなければ。烏滸がましいながら私は涼太の健康を慮ったつもりだ。自炊だって、生野菜のサラダ、こだわりのお味噌と酒粕も少々混ぜた具沢山の味噌汁、野菜や海藻を用いた副菜、納豆、そして肉や魚を用いた主菜など、この店に負けないくらい腕に寄りをかけて振る舞っていたのだ。毎朝、南部鉄瓶で温めた白湯を涼太の枕元にそっと置いて、米だって雑穀を混ぜているくらいだ。涼太がどうにか生命力を保って職場復帰を果たしたのは私の支えもあってこそに違いない。勘定を済ませたら、逗子海岸で海を眺めたり、例の蘆花記念公園の景観を訪れる。食生活のみならず、涼太の精神衛生面の気遣いも怠らなかった。海岸だって徒歩五分の距離である。療養中はよく海岸にも足を運んだものだった。涼太は海に来ると、いつも波打ち際に体育座りして、物思いに耽る。私に何を話すわけでもなく、ただ彼方の虚空を見つめていた。その様を見るだけで彼が如何に疲弊しているか分かるというものだ。風が吹かない限り、逗子の海は穏やかである。小波の音色に耳を傾け、涼太は地蔵のように只管思案に暮れる。私は所在無げに海岸を彷徨くのだが、小一時間経っても地蔵のままの涼太に「もう帰ろうか」と声を掛けて帰宅するのが常である。渚橋の近くにある海沿いの喫茶店にもよく訪れたものだった。海の見える窓際の席につき、涼太はそこでも水平線を見つめ思いに沈む。何をそんなに黄昏ることがあるのか知らないが、それで気が晴れるのならよしとしよう、と思っていた。私が声を掛けないと珈琲が冷めるまで感傷に浸っているので、「温かいうちに飲みなよ」と気を回す。こんな療養生活が二年ほど続いた。何れにせよ、私は漫画制作の傍らで身を粉にして涼太を支えたものだった。換言すれば、私は涼太を生かさず殺さず介護したというわけである。何と言ったって私は衰弱した親友、涼太を掌で捻くり回す機会を有難く頂戴したのだから、これを物にしない訳にいかないのだ。その打ち砕かれた愚直な自尊心を心おきなく、舐め回すように熟視出来る。そのためには、ある時は手厚く世話を焼き、またある時は自死しない程度に突き放す、その絶妙な匙加減が必要不可欠なのだ。そう簡単に朽ち果てられては面白くない。だから、栄養管理も徹底し、彼の心が向いた時には日光を浴びさせ、海を眺め、瀕死状態を上手い具合に保ちつつ、無気力な彼を心の中で嘲笑したものだった。繰り返すようだが、涼太は自分の信念を曲げず規則を遵守し、勉学に励み、そうすることで全ての夢を掴めると信じて止まぬ要領の悪い男だ。周囲の人間を徹底的に見下し、挙句の果てにはこの有様だ。こんなに興味深い観察対象が他に居るわけがないではないか。良い歳をこいて、未だこんなに手際の悪い親友がどのように凋落するか、どのような地獄を味わうのか、私はそれをこの目で確かめたくてたまらないのだ。自分の信念を悉くへし折られ、打ち拉がれる姿というのは不条理であり、残酷であり、滑稽でもある。私は、あの野心家で努力家の涼太が、無慈悲なまでに玉砕され、徐々に人間らしく朽ち果てる過程を見届けてみたいのだ。
しかし、涼太はしぶとかった。二年間の療養を経て、自力で這い上がってみせたのだ。通院生活は続くものの、症状は緩やかに快方へと向かい、薬の量も減少し、どうにか日常生活を取り戻していた。この生命力には目を見張るものがあった。この期に及んで彼は未だに自分の幸福を諦めてなどいなかった。低空飛行でも決して墜落することなく、再び高度を上げる機会を見計らっていたのであった。この底意地の悪い奴め。このまま会社を退職して廃人になるとばかり思っていたのに。彼の瞳も次第に輝きを取り戻す。あの憎らしい、他人を射るような、厭らしく鋭い眼光だ。そして、不愉快さを内包する理屈っぽい語種、自分と異なる価値観を小馬鹿にする卑しさ、相変わらずちんけでセンスの無いジャージのような私服。私が見慣れていたあの涼太が復活を遂げようとしていた。
「碌に学校の授業を受けていないからこういう性格になるんだ。お前、こいつがなんでこのような非行少女に成り下がったか分かるか。真面目に義務教育を受けていないからだ。つまり、知的好奇心が無いと人間は、未成年でも酒、タバコ、セックスに走ったりするんだよ」
これから先、また涼太の色眼鏡に付き合わされるのかと思うとつくづく倦厭させられる。歌舞伎町に屯する家出少女を特集する報道番組を見て、涼太が言い放った言葉だった。弁が立つ批評家を気取っているのだ。自信だけは一丁前の男である。その実はどうせ、かつて涼太を蹂躙したやつらに対する憎しみの裏返しだ。私はもう可笑しくて、くだらぬ戯言はそれくらいにしておけと言ってやってもよかったのだが、下手に反論すると涼太の神経を逆撫でしかねないので適当に相槌を打ってやり過ごした。しかしそうすると、同意してくれたと気を良くした彼は、殊更に不良少年らの愚かさについて縷々と持論を展開する。本当は、中学時代に散々侮蔑されたあの吉井や、それを取り巻く不良達への怨みでしかないのに。昔年の怨みを今も尚抱え攻撃を繰り返すその意地汚さたるや、実に痛々しい。この誠実で退屈な男よ。観念の中での勝利の継続ほど虚しいことはないという事実を、涼太という人間は図らずも体現しているようだ。彼が暴走し始めた時は決まって「原稿の締め切りがあるから」と適当に切り上げる。しかし、そうして元の気力を取り戻した涼太は、二〇二〇年四月、晴れて二年越しに横浜重工業経理部経理課へと職場復帰を果たすこととなった。
「またやり直すよ」
復帰初日、彼はアパートを颯爽と飛び出して、駅に向かっていった。彼は、逗子・葉山駅から桜木町駅間に定期経路を更新し、我が家から通勤することにしたのであった。彼は、自身が美徳とする大層な大人に向かって再び旅立っていったという訳である。私は内心清清した。どうぞ、心置きなく邁進し、奮闘するが良い。そして、その張りぼて同然の矜持を再び粉々にされるが良い。今度は再起不能なまでに。そしたら私はまた、涼太を仮死状態のまま手厚く介護してやろう。こんな見縊り合いの鼬ごっこを何度でも、何年でも、何十年でも、灰になるまで繰り返してやろうではないか。
(続く)
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