そんな中、中学二年の二学期の初め頃だったか、あの吉井が初体験を済ませたという情報を察知した。相手は吹奏楽部に所属する同級生で、この二人が交際しているという話は聞いたことがあったが、ちゃっかりこの夏休みの間に二人して大人の階段を登っていたというわけだ。休み時間、男子達はその話題で持ちきりだった。避妊はしていた、体位は正常位だった、最初は上手く入らなかったとか、体育の着替えの時、黒いボクサーパンツの膨らみを見た取り巻きが「このヤリチンが!」とか言って吉井の股間を掴もうとするなど、生々しい会話や振る舞いに鳥肌が立たずには居られなかった。正に猿そのものだ。いや、雄ゴリラと言った方が良い。実にくだらなく不条理だ。何度も伝えるが、吉井は成績不振の素行不良、糞餓鬼の鑑だ。男として何ら魅力はない筈の人物である。そんな吉井に恋心を抱く女子が複数存在したのも事実だ。しかし、まさか性体験まで済ませるに至るとは、驚きを通り越して呆れたものだった。みんな盲目的に吉井にきゃーきゃー騒いでいるが、良い加減目を覚まして、長期的な目で男を選んではどうだ。どいつもこいつも、もう餓鬼ではあるまいし。しかし、往々にして女子からの耳目を集めるのは、吉井とその取り巻きなのであった。俺は呆気に取られた。皆、目先の損得勘定に囚われ過ぎている。長期的に見れば俺の方が間違いなく見込みがあるのに、女子から見向きもされないのはおかしい! そんな中、親友のあいつは吉井の初体験に一応耳は傾けつつ、さもどうでも良さそうな素振りであった。そこがあいつの分からないところであった。その日の下校途中、あいつにもこの話題を持ちかけてみたがどこ吹く風で、興味のないような素振りを貫くものだから、その時は腹立たしかった。あいつも、俺より勉強は出来るし見込みのある男の筈だ。そんなあいつに色恋沙汰の一つもないのはおかしいと思ったし、共にこの不条理を学校に訴えて欲しかった。この腐った社会を正すべく働きかけて欲しかったがしかし、あいつは断じて便乗しない。あいつには本当に野望というものが無いのだ。生涯、俺を最後まで見捨てずにいてくれたのはあいつだし、心から感謝もしている。しかし、成人向けの漫画なんて描いておきながら、男女の色恋沙汰に興味がないなんて摩訶不思議ではないか。俺は知っているのだ。あいつが如何わしい漫画の作家をやっているということを。あいつは、同人漫画家としか言っていないけれど、俺はあいつの漫画だって読んだことがあるのだ。それこそ、吉井に似た男子中学生が、同級生の女子と性行為に及ぶ低俗漫画だ。なんだ、やっぱりあいつも興味があったのではないか。吉井の初体験だってどうでも良いなどと澄まし顔をしておいて、十数年経った今でも引きずっているではないか。つまらない見栄を張って、あいつは俺以上に自分が女子に注目されなかったことを悔やんでいるではないか。あいつもあの時に、俺と組んでこの学校の不条理を訴えかければ良かったのだ。間違っているのは吉井達の方なのだから、毅然とした態度で間違いは間違いと主張すれば良いだけのことだというのに。
そんなわけで俺は、この悔しさを受験勉強に向けるしかなかった。X学院とY実業、Z高校に焦点を絞って受験に臨むことにした。そして、あいつも同じ志望校と知り、やはり同志かと思った。中学二年の終わりの春休み、俺はあいつを自宅に招いて、勉強会を開くことにした。教材を一式持参してきたあいつと、自室で勉強に励んだ。あいつは、俺の家のトイレが修繕されていないことや、床に並んだビール瓶を不思議がっている様子だった。何もそこまで怪訝な顔をすることでもあるまい。考えれば分かることではないか。トイレの便座など使えなくなったら修繕すれば良いわけで、使えるうちは修理代を叩く必要などないのだ。加えてあいつは、リビングのビール瓶をしきりに気にかけるのを俺は見逃さなかった。あいつは知らないのだろうが、あの手の空き瓶は酒屋などで売却すれば小銭になる。たかが小銭と馬鹿にすること勿れ、十円だって十枚集まれば百円に、塵も積もればやがてはお札にだって換金出来るのだ。貰えるものを貰って何が悪いというのだ。俺は道端に落ちている物だって、それが使える物であれば拾うのだ。俺が勤務している横浜界隈なんか、ふと地面を見渡せばありとあらゆるものが落っこちている。未開封のポケットティッシュ、クーポン付きのレシート、商品引換券その他諸々だ。他人にとって不要なものだったのだろうが、俺にとっては使える物だから拾う。合理的なことだ。
あいつとの勉強会は夕方まで続き、陽が落ちる頃合いにあいつは帰宅した。それから約一時間後、父親が帰って来た。今となってはここ数年間で一度も連絡を取っていない、忌まわしきあの親父。未来永劫、顔をつけ合わすこともないであろう、自分中心で我が家を支配していたあの親父だ。
「今日、涼太のお友達がうちに遊びに来たんですよ」
「ああ、前に聞いた、涼太より成績が優秀だという子か」
「ええ、そうです」
「どんな子だ?」
俺の親父は、俺が仲良くなった友人に対し、家柄や人柄など、いつも根掘り葉掘り質問する。全て母親を介してだ。
「確かに、X学院やZ高校を受験しようとしていて、頭は良い子でした」
「父親は何の仕事をしている?」
「会社名までは聞いていませんが、民間企業の会社員のようです」
「役職は?」
「いえ、そこまでは……」
「なら質問を変えよう。その子の将来の夢は?」
「特に無いと言っていました」
「何だって?」
自分だって、どうせ大した仕事なんかしていないくせに、親父はやたらと企業名と役職など肩書きを気に掛ける。そして、将来の夢がないこと、X学院やZ高校を志望する理由も「何となく」であることが分かると、親父は次第に表情を曇らせ、やがて俺にこう言い放つ。
「その友達と関わるのは止めなさい。そいつは、確かに頭脳は優れているかもしれないが、努力を軽んじている。たまたま頭が良いだけで、夢もないみたいだし、成り行きで生きているだけだろう」
父さんが涼太にいつも言っていることは何か分かるよな、目標に向かって努力を積み重ねることが一番大事だということだ。次に出てくる台詞なんか瞬時に想像がついた。例え頭が良かろうが、努力することを軽視する人間であれば、どんなに成績が優秀だろうと涼太の友人として相応しくない。親父が言わんとしているのはそういうことだ。親父はこうして、学校における俺の人間関係を統括するのだ。
「母さん、今夜その子の家に電話して、涼太と関わるのをやめるように言いなさい」
「……はい」
こういう時に母親を遣うのが親父の狡猾なところである。自分は指示するだけで、母親を家来にして汚れ役を担わせる醜い男だ。結局、その後母親はあいつに電話して、俺は父親の忠告通りあいつとはそれっきり口を利かなかった。俺も浅はかだったのだ。親父が間違っていると気がついたのは、俺がZ高校に入学して以降だったのだから。
「同じ中学で、遊んでばかりの奴らも居るだろう。あいつらよりは成功者になりたいと思うだろう?」
これも親父がよく言っていた言葉だ。あの吉井を筆頭に、確かに中学の同級生は愚鈍の塊だった。俺と交際した方が将来的には安泰だというのに、それに気がつこうともしない奴らの鈍さったらないのだ。冷静に考えれば分かることも分からない、まるで集団催眠ではないか。だから、俺は偉くなっていつか奴らを見返す、努力して勉強すればそれは必ず実現すると信じていたし、あの醜い親父も、俺のそんな思いには寄り添ってくれたものだった。X学院やZ高校は、同じような思いを持った連中が各地から集まるだろうから、きっと今と違って良い友人関係にも恵まれるであろうし、更なる自己研鑽が可能な筈だ。だから、中学三年の時は、俺は誰とも口を利かず、授業と授業の間の十分休憩だって進学塾の教材や過去問を広げて勉強したのであった。愚かな連中どもは、「あのガリ勉野郎」などと言って揶揄してきたものだった。だが俺は一向に構わなかった。何故構わなかったか分かるか? 揶揄する連中の方が愚かだからだ。前述した通り、勉強はやった分だけ自分の資産になる。スポーツなんか打ち込んだところでいずれ体力は衰える。美術や音楽だって人生において何の足しにもならない。だから、勉強することが最も合理的に偉くなる為の最良の選択なのだ。不勉強な人間は愚かで、そういう連中に恋焦がれる奴らも同様に愚かということだ。この点において、あの親父も俺の心情は分かってくれていたようだ。今にして思えば、それも元々は親父にずっと吹き込まれていたことではあったのだが。
(続く)
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