手弱男(たおやお)と作法 vol.19 – 宮田涼介

手弱男と作法(宮田涼介)

 大学二年の六月、大学で民法の講義を受けていた時、親父から着信があった。こんな真っ昼間に親父の着信とは珍しいと思ったものの、この頃すでに俺は親父に心を閉ざしていたので無視した。しかし、ひっきりなしに何回も着信があるものだから、うんざりしながらもキャンパスを抜けて、一先ず電話に出てやることにした。

「もしもし?」

「もしもしって、今何しているんだ?」

「何って、講義だけど」

「母さんが死んだんだよ! 家で首を括っていた。父さんが見つけた時にはもう死んでいたんだ」

目の前が真っ白になった。俺は、民法の講義には戻らず、一目散にH駅から東横線に乗り込み、大泉学園の自宅まで向かった。およそ一時間半の通学経路。ただでさえ長い通学経路があれほど長いと感じたことはない。生きた心地はしていなかったと思う。電車を乗り継いだ記憶さえ曖昧だ。無我夢中で走っていたか、力無く蹌踉(よろ)めきながら歩いていたのか。とにかく、その次に覚えているのは自宅に帰宅した後だった。親父は母親の遺体を発見してすかさず救急車を要請したがその場で死亡が確認されたという。救急搬送を断られた親父は警察に通報し、俺と親父は一室に集結し事情聴取を受けていた。鑑識のような連中が、現場となったリビングを調べていた。床のビール瓶は綺麗に並んでいたままだった。結局、事件性もなく警察は自殺と判断、警察官から促されるままに布団を出し、母の亡骸を横たえた。親父は途方に暮れていた。母さんが何故、と哀咽(あいえつ)していた。この愚かなる男め。お前のせいだ。母さんが何故って、理由など分かりきっているではないか。生前の母は親父の言いなりで、中学時代に親友との絶縁宣言だって母親に押し付けたように、親父は自分のエゴを押し通すくせに汚れ役を一通り母に一任していたのだ。逆らえば手が飛んでくることもある。親父は何年もの間、俺と母に身体的・精神的苦痛を与え続けていた。その親父が今更になって、「母さんがどうして」などと慟哭している。自分でも分かっているくせに。目の前の親父を蹴り飛ばして、踏み潰したい衝動に駆られる。俺はとにかく母が本当に不憫でならなかった。親父の支配から逃れる術も無く支配されたまま、或いは支配に耐えきれず自らの命を絶ってしまったのだから。本当に哀れなる人物だった。半ば神格化された親父という偶像を崇め奉り、傀儡として散ってしまった母親。俺は、親父は憎んでいても母のことは常に気に掛けていた。俺が自宅をあけている時だって、暴力を与えられていないか不安になることもあったし、部活に入らなかったのも母を懸念しての上だったかもしれない。すっとぼけて(むせ)ぶ親父は滑稽で、俺は涙も出なかった。ちなみにこの親父は後年、風俗に通って肉欲を満たし、今や風俗嬢に恋して貢ぐ醜い男と化した。なるほど、親父も吉井やZ高校の連中と同じだったというわけだ。偉そうな顔をして他人を見縊(みくび)るような口振りで、「あいつらとは違う成功者になりなさい」なんて諭しておきながら、その中身は低俗の塊だった。俺は母の通夜、告別式に参列する最中、卒業したら絶対にこの家を出ようと思った。しかし、母が他界してから俺も体調に異変を来した。俺が生涯において唯一慕った女性である母だ。その母を失ったことによる心身への負荷は俺の想像を逸していた。結局、俺は鬱病・拒食症と診断され、大学を一年休学することとなった。親父は親父で、この頃から風俗に通い始めていたと思うが、家に帰れば植物状態の俺を見下して「脱落者」、「男のくせに弱々しい」などと罵る。くだらないと思ったが、当時の俺には言い返す気力も無かった。拒食症による痩躯(そうく)は著しかったが、親父はそんなことを気にも留めず俺を蔑むことしか頭にないようだった。一年後に復学するのだが、最早知っている顔は一人もいない、大切な人を失って、途方なき司法試験の勉強に励む気力も持ち合わせていない。俺の夢はこうして絶たれた。講義も出席したりしなかったりで、辛うじて進級に必要な単位だけは取得した。とりあえず、あの家だけは出たいから就職はしなければならなかった。就職が決まらなければ家を出られないばかりか、親父から屑扱いされるのが目に見えていたからだ。一年遅れでの就職活動。当時は就職氷河期で難航を極めたが、卒業を間近に控える中、ぎりぎりの状態で横浜重工業への内定を獲得した。何十社も落ち続けた中、やっとの思いで手に入れた唯一の内定であった。恐らく日本でその名を知らない者は居ないであろう、大手の自動車メーカーだ。横浜のみなとみらいに本社を置き、機能性、デザインに富んだ完成車を多数世に送り出している。街の至る所で「YOKOHAMA」と銘打たれた車を目にすることが出来る。ここに就職出来るのなら万々歳ではないか。親父も、弁護士になれなかったことについては相変わらず不平を零していたが、ひとまず世間的に名の通った横浜重工業への就職について文句はないようだった。親父は息子の世間体しか気にしていないから、その名を聞けば知らぬ者は居ない企業に就職した俺に合格点を与えたようだ。俺は急ぎで自宅を後にする準備を進めた。漸く、二十数年間俺を閉じ込め、母もろとも傷付けたこの牢屋から脱獄する。横浜重工業の独身寮は最寄りの桜木町駅から京浜東北線で十数分、横浜市磯子区に位置している。実家とは随分と距離があるので、これで親父とは暫く会わずに済むのだ。

俺が心を躍らせたのは父親と距離を取れるからだけではない。この横浜重工業への就職は俺にとって、起死回生のまたとない機会であった。司法試験への道を断たれ、長年の夢も見失って意気消沈していた俺だったが、一流企業会社員という箔は付けることが出来た。司法試験を目指していた頃の俺は、法の下に人を賎しめることしか頭になかったのかもしれない。人を蔑み、嘲笑って他人に打ち勝とうとする法律家とは何たる邪悪か。横浜重工業の平均年収は八百万だが、役職が上がれば年収一千万も夢ではなかろう。社会人になれば仕事の成果と経済力が口ほどに物を言う世界だ。吉井のように身体能力だけで食べていけるような世界ではないし、Z高校の有名無実な連中だって初めて壁にぶち当たり、己の浅はかさに打ち砕かれるであろう。少なからず俺は、吉井とその取り巻きにいた奴らよりは経済力を手に入れることが約束された。Z高校の連中にしても、せめて奴らと同等くらいの体裁を身につけられるかもしれない。今までこの俺を見下した連中に追いつき、追い越す機会を得たのだ。いつか中学の同窓会で顔をつけ合わせた時に言い放ってやる。お前は今何をやっている? 碌な仕事をしていないで、よくあの時俺を笑えたものだったな。遂に、裁きの時は来た。法の力なんか使わずとも、俺は自分の力で奴らに打ち勝つのだ。だから俺は何としても横浜重工業で仕事に励み、人よりも早く役職につき、経営幹部に昇り詰める必要があった。絶頂を掴む時期は遅い方が人生は幸福になるだろう。つまり、早くに性の悦びを手に入れて幸せになったあいつらは、その時点で俺に負けていたのだ。

(続く)

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