手弱男(たおやお)と作法 vol.21 – 宮田涼介

手弱男と作法(宮田涼介)

 結局、二〇一八年一月、鬱病及び発達障害と診断された俺は休職を余儀なくされた。もう心身の疲弊が限界に達していたのだと思う。後に聞いた話によると、俺は経理課のデスクで突然奇声を発して倒れたらしかった。俺はそんなこと微塵も記憶していないし、直属の上司によるでっち上げに違いない。上司は日頃より俺を快く思っていなかったことは知っていた。だから、強烈な創作話で俺を貶めたというわけだ。この会社では俺に対する悪意が其処彼処に潜んでいる。親父の電話とメールは着信拒否にしていたからもう連絡も取っていなかったが、会社の診療所からは俺以外の緊急連絡先を提示するよう依頼され、困惑した。まさか着信拒否しているあの親父の連絡先を会社に教えるわけにもいかない。休職する旨を親父に知られたら何を言い出すか分かったものではないからだ。絶対に、奴の連絡先を会社に教えるわけにはいかないと思った。それに、親戚に教えても巡り巡って親父に情報が伝わってしまう(おそれ)がある。どうしたものかと困窮した俺は、碌に使っても居なかったSNSを久方振りに探っていた。片手で数える程度しか居ない友人の中に、あいつの名前を見つけた。あいつとはSNSで辛うじて繋がっていたのだ。アカウントの投稿を追ってみるに、あいつは当時職業不詳ではあったが、どうやら逗子で一人暮らしをしていることは分かった。いきなりの連絡で恐縮だが、ここはあいつに頼るしか方法が無さそうだ。あいつは、突然のことで少々狼狽える様子も見せつつ、逗子駅で会う約束をしてくれた。逗子という街を訪れたのはこの時が初めてだった。銀座通りという商店街で、老舗の洋菓子店で近況やら思い出話に花を咲かせ、逗子海岸、蘆花記念公園に案内してくれた。商店街から海岸までは歩いて十分くらいだ。蘆花記念公園は俺の住むアパートのほど近くで、近所にあんなに風光明媚な地が存在することに感嘆した。俺はあの場所で、初めてあいつにだけは仕事で、いや、今までの人生で根付いてしまった心の(わだかま)りを打ち明かしてしまった。あんなこと、話すつもりもなかったのに、絶景を目の前に何故か話してみたくなってしまったのだ。あいつはやはり上の空の返事だったが、何を思ったのだろう。結局、その日のうちに逗子移住が決定し、俺は2DKのあいつの部屋で療養生活を送ることとなった。およそ二年間の療養期間中、何をするでもなく逗子という街で過ごす。かかりつけの医院は逗子駅近くで、自宅からは十五分強といったところか。病院の待ち時間は長かったが、あいつはいつも付き添ってくれていた。頼りになる親友であった。当初、「家で出来る仕事」としか聞いていなかったが、あいつが同人漫画家だと気が付いたのは逗子で暮らし始めて二週間くらい経った時だ。あいつの部屋の机にあるペンタブレット、本棚に几帳面に並ぶ同人誌。漫画家は漫画家でも商業誌向けのそれでないことは俺も勘付いた。あいつが不在の時、その漫画を何冊かこっそり拝読したことがある。その殆どが如何わしい内容だ。若い男女が情事に勤しんでいる内容ばかりだ。中学から高校にかけて、俺と同じく女っ気など皆無で、男と女の秘め事なんか関心もないような素振りをしていたが、あいつもやはり興味津々だったのだ。自分だって童貞のくせに俺を揶揄うかのように「まだ彼女は居ないのか?」などと尋ねておいて、その真意は如何なるものか。俺がまだ女性経験が無いと知って安心したか。三十路を目前にして女の子と手を繋いだこともない、まして仕事以外で女性と話してすらいない、俺を馬鹿にした同級生だってそろそろ結婚している頃合いだろう。取り残されているのはあいつだって同じだ。あいつだって、自分が謳歌出来なかった青春時代を芸術に昇華して未練たらたらではないか。あいつの漫画を読んで、思わず俺は吹き出しそうになったものだ。

 体調が優れない時は自室の布団で横たわる他ないのだが、どうにか身体の自由が利く時には逗子海岸へも足を運んだ。徒歩五分で海まで赴けるこの距離感は素晴らしい。晴れた日には富士山や江ノ島を望む。黄昏時も良いが明け方は格別だ。なかなか寝付けなかった時、まだ暗いうちに一人アパートを発ち海まで行ったことがある。ハーフマイルビーチを独占だ。砂浜に腰掛けて波音だけに耳を澄ませる。海岸沿いに連なる飲食店も開店前の時間帯。目を覚ます前の逗子海岸だ。空は次第に漆黒から紺碧へと色調を変える。富士のシルエットが広大なキャンパスに浮かび上がる、最も神々しい時間だった。肩の力がすっと抜けて、気が付いたら視界は涙でぼやけていた。冒頭に記述した通り、俺は近いうちには殺される運命なのだが、死ぬ前にこの風景に出会えて良かったと心から思う。今この瞬間においてのみ、俺の人生に纏わり付く忌まわしき煩悶などどうでも良く思えた。日常生活に戻れば、また同じような悩みに苛まれるのだが。

朝六時になると、地元の市民が海岸に集まってくる。この時間帯は、健康的な市民が海岸に集合してラジオ体操を行うのだ。軽快なピアノの音と共に、何人もの市民が同じ動きをとる。俺はラジオ体操に勤しんだりはしない。ただ後ろから見守るだけで、足早に海岸を去って家路につく。途中、逗子駅方面に向かうビジネスマンらしき男が目についた。勤労お疲れ様、と心の中で呟く。

「おかえり、どこに行ったのかと思った」

朝六時半、あいつは既に起床していた。まだ寝ているかと思ったが、あいつは朝が早いのだ。朝食に土鍋なんかで米を炊き、味噌汁や焼き魚などを拵えている。食欲のある時はあいつの手料理を頬張ったものだった。俺も逗子での暮らしに慣れていくにつれて、健全な生活を取り戻していた。薬はなかなか減らず、俺を殺す気ではないかと思ったこともあったが、あいつの助力は献身的で、容態は徐々に快方へと向かった。気力のある時には海に出掛け、地元の飲食店や喫茶店の料理に舌鼓など打ち、生きる活力というものを取り戻した。あの時は取り戻した気になっていた。復職したらまたやり直せるだろうと思っていた。休職してから実に二年間という長い期間ではあったが、主治医からも漸く復職を許可して貰い、俺は二〇二〇年の四月に晴れて復活を遂げたのだ。あいつの厚意で、復職後も逗子のアパートに住まわせてもらうこととなった。

「またやり直すよ」

同居人にそう言い残し、俺は再び会社員として蘇生した。復帰先は休職前と同じく経理部経理課。復帰後の主な業務は、課内の観葉植物への水やり、資料のコピー取り、書類や振替伝票のファイリング、デスク周りの清掃。何かがおかしい。毎日定時退社で余暇は充実した。しかし、これといって趣味もなく友人も居ない俺は、ただ部屋に籠って眠気が訪れるまで空虚な時間を過ごすのみ。隣室で絵描きに励む同居人を思い劣等感に苛まれるだけの荏苒(じんぜん)とした日々。後輩社員の方が余程仕事をしているし、今年配属された女性総合職の方が高い評価を得ている。かつて俺の教育係であった係長がその女子社員を懇切丁寧に指導する。分からないと質問があれば手を止めて親身に指導する。俺は係長にあんなに優しくしてもらったことがあっただろうか。俺の煩悶は次第に憤りと憎しみを帯びた。中学の時から感じていた煩悶だ。俺は考えた。納得出来ぬことばかりのこの世の中で、俺は何に苦悩しているのか。誰に怒りの矛先を向けるべきか、そいつらに相応しい復讐は何か、何者にもなれぬ俺自身を如何にして辱めるか……。

(続く)

コメント