俺は絶対に、新たなる自分に転生するのだ。確かなる高揚感。やり場なき焦燥、不安に駆られる生活に終止符を打つべく、俺は夜の蝶になる。新しい自分を手に入れる。念の為だが、元来俺は男色家ではない。女性になりたい男でもない。俺は異性愛者であり性自認も男性である。彼氏の欲しさにこの日ノ出町を訪ねた訳ではあるまい。男と性的な関係を持つことが目的でもない。どういうことか分かるか? 何故俺がここまでしなければならないか分かるか? 俺がどんな気持ちで、直引きするまでに至ったか想像出来るか? お前らに俺の気持ちが理解出来るか? 俺が日ノ出町に来たのは、そんな安直な理由ではないのだ。初めて男性に声をかける瞬間、それはもう呼吸が荒くなった。胸のあたりが小刻みに震え、不意に目眩を覚えて目の前の景色が靄に覆われる。思春期の俺がこの有様を見たらショック死するだろうか。ほんの少し気持ちの揺らぎがあったことは否定しない。しかし、決意を持ってここに来た以上は邁進する他無い。
「あの……」
声量が足らず、最初の男には素通りされた。やはり思い切りが必要だ。だが、どうしても尻込みしている。俺は後ろ髪を引かれていた。せっかくここまで来たのに収穫無しではまるで意味が無い。明日からまたしがない会社員に戻りたいか? やるせない日常から羽ばたかなくては!
「お姉さん、ちょっと」
そんなことを熟々と考えていたら、一人の男が俺に声を掛けた。四十代半ばの骨格の良い、少々遊び人風の男。勿論、俺を男だと認識しているようだった。元々、こういう遊んでいそうな男は嫌いだ。Z高校時代の俺だったら、心の底から嫌悪していたであろう。いや、大人の社会にだってこうした男は見受けられる。こういう男は関われば関わるほど、得てして俺を見下したり、侮蔑したりするから相性が合わない。馬鹿にするな、俺を舐めるな。普段ならそう言ってその場を立ち去っただろう。しかし、今日の俺はその誘いに乗り、遊び人男に靡いた。こうしなければここに来た意味はないのだ。
結局、日ノ出町のアパート一室で、俺とその男は交わった。気持ちが良かったかは記憶にない。しかし俺はベッドの上で涙を零していたことだけは未だ記憶に新しい。誤解してはならない、怖かったから泣いていたのではない。
「シャワー浴びていく?」
「はい、あとで……」
「麦茶でも飲むか? 入れてあげるよ」
「ありがとうございます」
一見厳つそうな男なのに、その夜の男は物腰が柔らかくて、気遣ってくれた。男は食器棚からコップを取り出して、とくとくと音を立てて麦茶を入れ、俺の目の前に差し出してくれた。
「今日はありがとうな。これ、あげるよ」
男は財布から一万五千円を取り出し、俺に差し出した。この辺りの立ちんぼの相場は、口だけなら五千円、本番までなら一万五千円だという。会社の手取りなんかよりも、この一万円札、五千円札のなんと重たいこと! 正真正銘、この身一つで得た俺自身の価値だ。店に居た時には一度も感じたことのない充足感だ。初めて報われた気がした。店になんか所属しなくても、俺はこの身体一つで価値を生み出すことが出来た。店に居た時の客はいつも俺を邪険にしたが、この男は優しかった、初めて必要とされた気がした。俺に真の価値が生まれた瞬間だ。吉井よ、Z高校時代の連中よ、職場の奴らよ、同居人よ、そして親父よ、見たか? 俺はまさに今、勝鬨を上げたのだ! 俺に価値を見出した男が、この世には存在するのだ。お前らにこんなことが出来るか? 俺の思惑通りだ、やはりこの復讐は間違っていなかった! 俺はこの街で生まれ変わってやる!
「とても良かったよ、ありがとう」
俺が涙したのはそれだけではない。何よりも、初めての男の優しさ、気遣いは俺の琴線に触れるものだった。俺は、男に初めて人間扱いされた。とても良かった、ありがとう、そんな実直な言葉を男から貰ったのは初めてだ。今までの人生で、男に褒められた経験なんて殆ど無かった。幼い頃からそうだ。親父に叱責されることはあっても褒められたことなんて一度も無いし、今の職場でもそうだ。あの女子社員のように優しくなんてされたことがない。中高の同級生だって、大概は俺を蔑んで、居ない者とまで看做す始末だった。店の客にだってブス、オッサン呼ばわりされたこともある。男は俺という存在、個性を認めず蔑む、邪悪な生き物として忌避していた。だから俺は男が嫌いだった。その嫌いだった筈の男が、俺を一人の人間として認め、価値を見出してくれている。俺はこの男にとって、金を払ってでも抱きたい、大切にしたい人物だったのだ。ただ言葉で認めてもらえるよりもずっと誇らしい、なんたって身体で繋がったのだから。あの男と、心と身体の意思疎通を経て、彼は俺を讃えてくれた! これは画期的なことなのだ!
結局その夜は、その一回だけで日ノ出町を後にし、逗子・葉山駅へ向かった。胸の鼓動は収まらず、今夜は寝付けないかもしれない。俺はこうして生まれ変わった。
「今日はなんだか元気そうじゃん?」
俺が帰宅すると、あいつが声を掛けてくれた。俺の昂りがあいつにも伝わったようだ。
「まあ、色々とね」
長髪のウィッグは逗子・葉山駅のトイレで外した。別に、あいつには街娼を知られても構わなかったかもしれない。ウィッグをそのままに帰宅しても良かったのだが、やはり躊躇われて帰路に着く最中に外すことにした。
「え、あんた立ちんぼ始めたの?」
小馬鹿にするようなあいつの顔が想像出来たからだ。あいつは思春期の時、悶々とする俺の姿を目の前で見てきた人物だ。とうとう堕ちるところまで堕ちたな、などと罵られるのは甚だ心外だ。俺が堕落したというのか。堕落なんかではない。これは戦いだ、崇高への挑戦だ! 社会で認められない俺が認められるための戦い。或いは復讐か。何に対する復讐だろう。親父に、会社に、上司に、同僚に、そして目の前にいる同居人に。身体能力の評価とルッキズムを重んじ、真摯に勉学に励むことを揶揄い、競争に勝つことを美徳とし、弱音を吐くことを認めない男社会への復讐だ。だから身を売る相手は男でなければならないのだ。大概にして男社会を牛耳るのは、運動能力に長け、顔が良く、会話能力が高い人物。これらを兼ね備えた男は、青年時代から自信満々で、その自意識は得てして成人以降も引きずる傾向がある。その男が年齢を経て人の上に立つ地位にありつく。俺はその真逆というわけだ。俺は、その三要素が見事に欠けていた。中学時代から、同居人以外に碌に人間関係を築けたこともないし、就職してもうだつが上がらない。こんなこと、おかしいではないか! 俺は中学時代、周り居た誰よりも生真面目に勉強してきた自負がある。親父に言われたように、辛くても弱音を吐かず、「出来ない」と言わず、偉くなるためにだ。言われた通りにこなしてきたご褒美がこれか? 中学時代の連中だって次々と結婚した。先日SNSで知ったのだが、吉井なんて今何をやっていると思うか? 奴は今、新宿歌舞伎町の売れっ子ホストだそうだ。奴に貢ぐ女の子は数知れない。沢山の女の子を相手して、好きなだけ酒を飲んで、一度で良いからそんな人生を俺だって送ってみたいものだ。吉井に俺の気持ちなんか絶対に分かるまい。どんなに勉強したって満たされぬ俺の苦悩なんか知られてたまるか。そして、今目の前で話しているこの同居人も同じだ。こいつもちゃっかりして、たまさか知能が高かったからZ大学を卒業しただけで、たまさか絵の才能があったのか知らないが、今は好きな絵を好きなだけ描いて、それで悠々自適にこの海沿いの街で人生謳歌だ。俺とこいつは誕生日が近くて、同じ四月なのだが、この間の誕生日には驚愕させられた。その日は俺も家に居たのだが、次から次へと自宅に宅配の荷物が届くので何事かと思った。同居人にはSNSのフォロワーが数万と居るのだが、数知れぬフォロワーがこいつに誕生日プレゼントを贈呈していたのだ。こいつがSNSで公開している、「アマゾン欲しいものリスト」。ワイヤレスイヤホン、服飾品、美容液、酵素ドリンク、絵描き用具や教則本。全てファンからの貢物だ。知らぬ間に随分と良いご身分になったものだ。誕生日プレゼントなんか何年も貰っていない俺を尻目に、物品を恵んでもらってさぞかしご満悦だ。俺はこいつよりも勉強してきた。こいつが不合格となったX学院やY実業にだって俺は努力で合格した。なのに、この差はなんだ。なんで俺ばかりこんな目に遭わなければいけないのだ。許せない。何が許せない? こいつが、会社が、親父が、世の中が、俺自身が? 復讐してやる。罰を下してやる。俺を征服する強い男ばかりを相手に身を売って、快楽という名の下に征服する側となってやる。これが俺の復讐だ。
(続く)
コメント