手弱男(たおやお)と作法 vol.25 – 宮田涼介

手弱男と作法(宮田涼介)

——どんな男も射精には叶わない、射精を前にしては無力だということを。

 二人目の客の、立ち小便の要求など可愛いもので、屋外で交わった回数なんか数知れなかった。あたしはラブホテルのベッドの上、ひいては路上で排便もした。客の男がベッドを指差して「そこにしゃがんで脱糞しろ」と言うので、言われた通りにする。誤解なきよう断りを入れるが、あたしにそのような嗜好はなかった。そう指示されて勿論戸惑い、拒否しようという考えが過る。しかし、あたしはその要求を呑んだ。ウィッグが汚れないようにだけは注意を払い、白いシーツの上にしゃがむ。やはり、いくらあたしでもそんな粗相は出来ない、やっぱりこんなこと出来ません、という言葉を吐き出して楽になりたかった。

「あれ、どうしたのかな、出来ないのかな? 人前でお漏らしするのが、そんなに恥ずかしいのかな、ん?」

あたしは大粒の涙を零していた。中学時代、同級生に虐められても涙を流さなかったこのあたしが、恐怖と屈辱で震えている。この男が怖かった。いっそのこと、この男に殺されたいとさえ願った。しかしあたしは咄嗟に、あいつらの顔を思い出す。親父、吉井、会社の連中、そしてそいつらがあたしに吐き捨てた言葉の端々も。沸々と湧き上がる憎悪。自分自身に課した試練を忘れるところだった。あたしは腹の辺りに意識を集中する。この程度で怯んでいる場合ではなかった。今こそあたしを解き放つ時だ。これは復讐だ! あいつらを驚嘆させ、「俺が悪かった、もう止めてくれ」と降参するまでやってやる! 排便の気配を察知したところであたしは力を込めた。そっと腹を摩り、出来るだけ心を無にして排出するように自ら促す。身体は震え、更に涙が出そうになったが必死で堪えた。ガスの抜ける音で自尊心は崩壊しそうになるが、構っている場合ではないと只管に言い聞かせる……。

 出た。自分でも驚く程に出た。バナナ二、三本分は出た。憎しみと復讐心だけでここまで出来る潜在能力に、自らも驚きを禁じ得なかった。鼻で呼吸をすると自分が崩壊しそうになるから、浅い口呼吸で勝利を確信する。

「お前、すげぇじゃねぇか。さあ、ベッドの汚物を自分で見てみな! 目を逸らすんじゃねぇよ、ほら! 大の大人が糞なんか漏らしちゃってよ! あーくせぇくせぇ。ほら、ちゃんと嗅いでみな、恥ずかしいだろ、ええ?」

尻を拭くことさえ儘ならずに頭を掴まれ、ウィッグは今にも外れそうにぐらぐらと揺れる。毛先に汚物が付着した。後で丹念に洗い流さなければ。男はいやらしくも、あたしが鼻呼吸しているか確認しやがった。拒もうものなら何をされるか分からないので、あたしは為す術もなく、従うしかない。ヘドロのような臭気に眩暈を覚え、吐き気を催した。

「さあ、さゆりちゃん。これを食べるんだ」

この凄惨たる宿命を受け入れ、我が生き様を生きる。猛烈な臭気にあたしの吐き気は耐え切れず、あたしは自らの排泄物の脇に胃液を吐き出す。

「誰が吐けっつったんだよ! お口をあーんして自分のウンコ食ってみろよ、ブス!」

それからの記憶は途絶えている。あたしは何も覚えていない。何も聞こえない、何も感じない。

 フロントからの電話で生気を取り戻したが、受話器を取る気がしない。既に男の姿は無く、退室の時間が迫っていた。ベッドの上には一千五百円。「イチゴー」と契約をしたから一千五百円。あれだけのことを成し遂げて一千五百円。目前にある人間の深過ぎる業が恐ろしくて瞬きも出来なかった。あたしの手は震え、冷や汗が止まらない。猛烈な臭気がたまらなくて、洗面所に駆け込み胃液を嘔吐した。固形石鹸を泡立てて、汚れたウィッグを入念に、擦るように洗う。石鹸を口に含んで嗚咽した。失うものなどもう何もない。穢れることも宿命なら、それもまた受け入れるまでだ。

「すみません、もうご退室のお時間ですけど」

清掃員と思しき中年女性の足音が聞こえたが、あたしは構わなかった。無心に石鹸を泡立てて、ウィッグを(くしけず)る。擦って、匂いを嗅いで、汚物の片鱗がないことを何度も確認する。

「うわ!」

清掃員の引き攣る声と舌を打つ音で手を止める。暫くの間、身体は硬直する。洗面所の水道の音だけが響き渡っていた。

「お客さん、ベッドの上のやつ、あれあんたがしたの?」

あたしはまだ動けない。唇は小刻みに震えた。(しゃが)れ声の清掃員に視線を向けることが出来ない。顔の向きは変えず、恐る恐る眼球だけを左に向けてみる。彼女はあたしに近付いて耳打ちした。

「お姉さん、こういうのはね、困るのよ! これ、誰が掃除すると思っているの?」

どの口が言うか、お前みたいな奴が偉そうに。あたしは顔を彼女に向けることなく水道の蛇口を捻った。決して目を合わせず、息を殺してバッグを肩にかけ、部屋を後にしようとする。言うべきこと、言いたいことは様々あった筈だった。顔から火が出て、心臓が胸から飛び出してしまいそうだ。肩の震えも止まりそうになかった。ウィッグで顔を隠しながら、彼女に軽く会釈だけしてドアノブに手を掛ける。

「あんた清掃員でしょ、清掃すんのがあんたの仕事でしょ!」

「何よ、あんた。もう一遍言ってみなさいよ!」

「じゃあもう一回言うわ! てめぇ清掃員だろ、清掃すんのがてめぇの仕事だっつってんだよ!」

「馬鹿にしてんのか、あんたは! もういい、館長には報告しておくからね。このシーツももう駄目だわ。やってくれるわよ、本当に!」

もう一度言う。あんなこと、あたしだって好きでした訳ではない。あたしはただ、男がそう求めたから応じたのだ。清掃員の端くれが図に乗りやがって、あたしの何が分かるというのだ。あのようにすれば男が褒めてくれるから。皆、「良いぞ」って言ってくれるから。「良い子だ」って言ってくれるから。「気持ちよかったぞ」って褒めてくれるからよ! しかし、お陰様でこの界隈最安値のラブホテルは出入り禁止となった。これも男の欲情に忠誠心を誓った以上致し方のないことだった。あたしはこの街に戦いに来た戦士なのだから。 あたしは翌日、始業と共に職場のパソコンでワードを立ち上げ詫び状を書き、最寄りの郵便局からホテル宛に郵送し、二度とそのホテルを訪れることはなかった。いずれにせよ、そうまでしてでもあたしは客の赴くままに欲望の傀儡となる。それがあたしにとって至福の瞬間だから。男は皆、果てる時に同じ顔をする。権威ある大学教授、偉そうな出立ちの会社役員、横浜界隈を彷徨くホームレス、絡み盛りの大学生、排便好きの男、腹を殴って嘔吐させるのが好きな初老の男、あたしの顔面を平然と殴り痣を残す男、どんな男も皆一様に、最後に昇り詰める顔は同じだった。これは実に滑稽極まりないことだ。あたしが復讐の手段として春を鬻ぐことを選択した理由は、まさにこれなのである。聡明なあたしは早々に悟っていたのだ。どんな男も射精には叶わない、射精を前にしては無力だということを。中学時代の吉井や、Z高校の早熟な男達がそれを証明していた。あいつらだって、最後の瞬間にはきっとあの顔をしていただろう。あんなにクラスで威張り腐っても、射精する時には情けない顔をしているに決まっているのだから。あいつらが無防備な表情で放出する姿を想像すると笑えてくる。何食わぬ顔であたしを殴打した客でさえ最後には恍惚の表情と情けない歓喜の声を伴って放出するのだ。あたしはこの顔を意地でも見逃さない。あたしの中に出し入れされる男の勲章の温度を、男が放出する僅かな体液の温度を肌で感じる。たかが少量の体液と侮ること勿れ。これは男達があたしに降伏した何よりの証だ。如何にも屈強そうな男達が、あんな少量の液体を発射するために懸命に腰を振る姿が滑稽でなければ何だというのだ。あたしは見逃さない。恍惚に向かって少しずつ色合いを変化させるその様相を、絶対に見逃さない。次第に荒くなる男の呼吸には耳を澄ます。あたしのためだけに腰を振って流した汗の臭いを決して忘れない。興奮状態の男がした接吻は、舌先で存分に堪能する。あたしの中で広がる男の体温を全身で感じる。男を征服するその瞬間を全ての感覚器は察知し、知覚する。それだけであたしは胸焦がれた。その瞬間においてのみ、あたしは勝利するからだ。その顔を脳裏に焼き付けて、あたしは確信した。また一人、あたしは男を支配し、復讐を成し遂げたのだと。そうした歓喜の蓄積はあたしの血となり肉となる。もちろん、お金も。あたしは組織に属せずともこの身体一つでお金を稼げる女だ。春を鬻いで受け取った報酬は新設した銀行口座に預け入れる。決して引き出すことはない。毎日欠かさず通帳記入をする。機械は金切り声を上げて、あたしはしてやったりな表情を浮かべる。預金通帳を眺めて満面の笑みを浮かべるのが好き。やった分だけこの額面は着実に貯まるし、決して裏切られることはない。引き出さなければすり減るわけがないからだ。これであたしは血湧き肉躍る。こつこつと積み上げる学業が自分の資産になるのと同じことだ。

(続く)

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