手弱男(たおやお)と作法 vol.26 – 宮田涼介

手弱男と作法(宮田涼介)

——この化粧は武装だ。仮面だ。あたしにとって鐙を身に纏うがための、この社会に身を投じるための通過儀礼だ。

「安原さ、明日から化粧して出社するのをやめてもらえないか」

数日後に課長代理の平林に呼び出されたあたしは、何を指南されるのかと思いきや、あたしが化粧して出社するのを快く思っていないようだった。確かにあたしは、この会社では入社当初から変わらず男性社員なのだ。周囲の社員の胡乱(うろん)な視線を、あたしも見逃しているわけではない。

「すみませんが、それは社内規定に明記されていますか?」

そんな記載のないことなど自明だが、あたしはすっとぼけてやった。そちらが牙を剥かない限りはあたしも穏便に受け流すつもりでいるが、あたしの血液は沸々と湧き立つ。

「社内規定には書いてないけどさ」

「なら、何が問題なのですか?」

「書いてなくたって、常識的に分かるだろ!」

常識とは、あたしを誰だとお思いか。あたしはこの身体を売り歩く女だ。そのあたしに常識を求めるとは笑止千万。大体、元を辿ればお前らみたいな男のせいで、あたしは夜な夜な身売りしているのだ。平林よ、あんたを今すぐ日ノ出町に連れ出して、この身体を売りつけてやりたいくらいだ。社員割も適用してやるからよ。

「平林さんの主張には重大な瑕疵があると言わなくてはなりません。化粧をして出社するのが不適切ということであれば、化粧することを禁止する旨の規定を設けるよう、まずは人事部に掛け合う必要があります。また、化粧をしている社員は他にもたくさん居るのに、私にだけ矛先を向ける理由は何ですか。平林さんの主張には合理性がありません。いずれにせよ、私に対してのみ化粧を禁ずる趣旨であれば、それ相応の論拠を示さなければなりません」

「ああ、もういいよ!」

これでも一度は法曹を目指した過去がある。法学部仕込みの論駁で平林を返り討ちにした。あたしの化粧を指摘する者が現れたら、こう反論しようと予め準備しておいた甲斐があった。平林の主張がどう考えても理路整然としていないのだ。こんな馬鹿げた主張を鵜呑みにしてたまるか。

「いつまでもインテリ気取ってんなよ! やりづらいし、薄っぺらいんだよ、お前は!」

あたしが空っぽだというのか。あたしの化粧が砂上の楼閣だというのか。何も知らないくせに。やりづらいとはこちらの台詞だ。この男は論理学を基礎から学んだ方が良い。こんな人非人(にんぴにん)に阿るものか。明日から小型の録音機を持参して、こいつとタイマンを貼る時は必ず記録し、後に人事部に届け出してやる。

 立ちんぼを始めてから一年ばかりが過ぎ、あたしは出社する時も化粧を施すようになっていた。ケイトのBBクリーム、メイベリンの最も明るい色のファンデーションを塗りたくる。セザンヌのパールグロウハイライト01は、顔の白さが浮き立つまで只管に重ね塗りする。ベースメイクで肌の色そのものを変えるのだ。そして、あたしのお気に入りのブルーのアイシャドウ。これは欠かせない。瞼からはみ出さんばかりに、真っ白い肌にアクセントを付けるのだ。シャネルの真っ赤なリップは顧客からの頂き物だが、他は全て自達している。先に断っておくが、「似合っていない」といった指摘はお門違いである。これは極めて重要事項であるが故、予め言及せねばなるまい。似合うかどうかなど大した問題ではないし、流行りを導入したお洒落な化粧などあたしの意図するところではない。どれだけ別人になれるかだ。鏡を見たときに、「誰だ、こいつ」と思えることが重要だ。この化粧は武装だ。仮面だ。あたしにとって鐙を身に纏うがための、この社会に身を投じるための通過儀礼だ。こうせずにはいられぬ己があるからだ。別人になることが目的なのだから流行りのメイクなんか興味がないし、高価な化粧品である必然性も無い。ファンデーションなんて一回の化粧でツープッシュは使用するのだから、高級品を買ったところですぐ無くなるので合理性に欠ける。極論を言えば百円均一の化粧品だって良いわけで、とにかく一つ一つを大量に使うことで変身を遂げるのだ。この化粧によって勝鬨を上げたあたしは、数多の男を享楽の沼に沈めるのだから。あたしはこの化粧を施して、初めて変わり果てた自分を鏡で目の当たりにして、それはもう底知れぬ畏怖と発揚を覚えたものだ。これからあたしは、こんな顔で得意満面に「お早う御座います」などと言って出社するのだから。あたしの中に居たもう一人のあたしが産声を上げる瞬間。こういう力が化粧にはあるのだ。あたしはしがない安原涼太なんぞではない。このあたしの艶姿を、自我を、生き様を全社員の網膜に鮮明に焼き付かせようではないか。かくしてあたしは、この横浜重工業で生きながら死んでいくのだ。

「へえ、君は横浜重工業の勤めなんだね。そんな立派な会社に勤めて、君は何故売春しているの?」

「君、ゲイでもバイでもないのに、どうして男に身体を差し出しているの?」

お客の男たちによく問われた。売春婦を買う男というのは、得てして売春婦を見下している。言葉の端々や態度にそれが滲んでいた。お客に舐められるのは望むところではないから、よく横浜重工業の名刺を見せつける。馴染みの顧客である大学教授が、酔った勢いで冗談交じりに「横浜重工業って、政府と癒着して巨額の賄賂でも送ってるんでしょ?」などと罵るものだから、あたしはすかさず「横浜重工業は断じて、そのようなことはしておりません!」と反論した。いついかなる時も会社への忠誠心は忘れない。何故なら、あたしは横浜重工業の期待の星だから。その頃のあたしは定時きっかりに退社するようになっていたので、雨の日も風の日も欠かさず日ノ出町や伊勢佐木町に立ち続けていた。足を負傷した時だって松葉杖で街に立った。

「ねぇ、あたしと遊びません? ねぇ、お時間ありません? お口だけなら五千円よ。ちょっとくらい話聞いてくれたって良いじゃないのよ、ねぇ!」

「ちょっとあんた、うちの店にずかずか入って来んじゃないよ、迷惑なんだよ。客引きなら他所でやんな!」

青果店の親父に叱責されようと、時計の針を目視しながら、目ぼしい男には声を掛ける。日ノ出町、伊勢佐木町、黄金町、若葉町、末吉町まで、毎晩毎晩早歩きで狩りを楽しむ。

「申し訳ないけれど、あんたの身体にイチゴーも払えない。だって、痩せ過ぎていて化け物みたいだもん。骨と皮だけみたいな身体じゃないか」

「何よ、失礼な。幾らだったら買ってくれるのよ」

「八千ってところかな」

「だったらいいわ、早くやんなさいよ」

無礼極まらぬ客だと思った。五十代の男だった。人間は得てして他人の身体を値踏みし、美醜に執着する。Z高校にいた時もそうだった。Z高校は男子校だから、グラビア雑誌なんかも休み時間に読み回す光景をよく目にしたものだったが、写真に写る女の子の顔、胸、身体に評定を下す。同性の体に対してもそうだ。筋肉質で骨格の良い男が勝つ弱肉強食の階級社会だ。同じように、今目の前にいる老爺も、相場以下の八千円という評価をあたしの身体に下した。相場の半分程度の女であると。こいつに限らず、あたしは次第に安請け合いも厭わなくなっていった。皆一様に言う、あたしは痩せ過ぎていて魅力がないのだと。この間の客はゴム無しの本番でも五千円だ。あたしはいつしか薄利多売の街娼へと成り下がったようだ。この街に立ち始めたばかりの頃は、口だけなら五千、本番までなら一万五千という相場価格は一貫して守っていた。一日四人本番を行えば六万円。一ヶ月で百八十万。一年間では二千万を超える。一銭足りとも漏らさずあたしの血肉にしてやる。我ながらこの一年近くで随分貯蓄したものだと思う。会社の手取りなんかゴミのように思える程稼げるのだから。賞与を加味したって今の平社員年収よりも余程効率的に稼いでいる。勿論、依然として口座から一度も引き出したことはないが。しかし、最近は安売りしているせいで日々の貯蓄も鈍くなっている。皆してあたしの長身痩躯を馬鹿にしやがって。痩せ細っているのではない。あたしはスリムな女だ。お前らこそ、その汚い腹は何だ。肥えることはあたしの美学に反するから太るわけにいかないのだ。あたしの親父がそうだった。あたしが中学に上がる頃には親父は既にメタボリック症候群で、その腹もだらしなく出っ張りを見せていたものだ。醜い男の醜悪な腹。あんな醜態を晒すくらいなら死んだ方が良い。この身体を維持し、更に痩せる努力を怠らない。毎日コンビニで購入するおでんはあたしの夕食代わりだ。日ノ出町のセブンイレブンで購入するおでん。蒟蒻、白滝、むすび昆布など、低カロリーの食材を選ぶ。忘れてはならない、具材を入れる容器は一つ一つ分けること。容器全てに汁をたっぷりと注いでもらうこと。これもあたしの重要な日課。別におでんが特段好きだったというわけでもない。これでも若い時分には肉だって食べたものだ。しかし、日ノ出町界隈に立ち始めて、ふと立ち入ったコンビニでおでんを買って以来、ここに毎日通っている。店員との会話は特にないが、恐らくここの店員であたしを知らぬ者は居ないだろう。ホテルの部屋で、おでんの汁までしっかりと飲み干す。どうせ化学調味料塗れの汁だろうが、これなしにあたしの街娼は語れない。これもあたしにとってはなくてはならぬ儀式のようなものだ。そろそろ肌寒くなる頃合いだが、バーバリーのコートは欠かせない。真夏だろうが真冬だろうがこのバーバリーのコートと決めている。理屈なんか無いがこのコートでなくてはならない。たとえ肌寒くなろうと相手が求めれば駐車場で交わるし排便もするのだ。流血プレイが好きだという客に出会した時は、あたしは急遽カッターを購入し、駐車場にて右腕を自ら切り付けて男と行為に及んだ。駐車場の死角に忍び込み、あたしは男に媚びるべく、軽い小芝居を打ってみせた。

「あたしもう生きるのつらーい、もう死にたーい、腕切っちゃいたーい。カッター、カッターはどこーぉ?」

その場の発想であたしの口から出た言葉の数々だ。厳密に言えば小芝居ではなかったのかもしれない。しかし、あたしは自らの腕など切ったことのない人間だ。カッターを手に持ち、手首に近づけた時、あたしの手は恐怖で痙攣していた。出血多量で死んでしまったらどうしようと慄いた。あたしは恐る恐る、刃の先端を手首に当てがう。ますます呼吸は荒くなった。白い吐息が蒸気機関車のようにもくもくと湧き立った。刃の冷たい感触。刃の先端を直視出来ず、視点は定まらない。あたし、本当にこの腕を切るのか。

「カッターあったーぁ! ざしゅ、ざしゅ!」

手首から一滴の血液が滴った時、あたしのタガは外れた。痛みがあったかの記憶は定かではない。しかし一旦切ることが出来ればもう怖いものはない。この意識が飛んでなくなるまで抉ってやろうかと思った。何故そこまでする、というのか。男があたしを讃えてくれるからよ、「良いね」って言ってくれるからよ! 腕を切った時だって、「ここまでしてくれる奴は初めてだ」って褒めてくれたからよ! その後、背後から犯されたが、「どうしてそんなことまでしてくれるのかい? ん?」って、耳元で優しく囁いてくれたからよ! あたしを侮蔑する前に、何故あたしがここまでするのか、頭冷やして考えてみろよ! この次にあたしを買った客だって、あたしに対して何て言ったと思う?

「俺、ゲイじゃないんだけどさ、お前見てたら興奮してきた。お前だったら抱けるぜ!」

その言葉でどれだけ救われたか、お前達に想像出来るか。何度でも、声枯れるまで叫んでやる。身体を売るしかないその理由を、売るのを止められぬその理由を!

(続く)

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