——何が「Z大学卒業ってことで期待されてたんだけどな」だ。お前らが勝手に期待して勝手に失望しただけだ。
「安原よ、ここのところますます痩せているように見えるが、飯は食べているのか? 睡眠は取っているのか?」
翌朝早々、部長から直々に会議室に呼び出される。近頃は十七時半の定時上がりが続いているので、夜はSNSや直引きで四人の客を取るのだが、連日続けるのはやはり体力面で堪えるものがある。会議室での転寝も珍しくはないし、会社での化粧も日増しに濃くなる一方である。
「そんなに痩せてますかねーぇ。ご飯も食べてますし、眠れているんですけどーぉ」
「復職してから病院には行っていないのか?」
「最初の頃は行ってましたーぁ。でも、薬飲んだら治ったのでーぇ、今は通ってないんですーぅ」
「これは老婆心だが、何か良からぬことを裏でやっていないか? 本当に大丈夫なのか?」
「良からぬことなんてやってないんですけどねーぇ。あたしは大丈夫ですーぅ」
さゆりという人格はあたしの意識を離れ、一人歩きを始めようとしている。中身のないやり取りで会議室を後にし、あたしは自席に戻ってネットニュースを印刷する。今日の客との政治経済談義に備えて、めぼしい記事を予めスクラップする。明後日の、SNSで知り合った顧客は誕生日を迎えるので、誕生日プレゼントをネットで調べ、バースデーカードの準備もしなくてはならない。あたしは安原涼太。Z大学法学部を経て、この横浜重工業経理部経理課の期待を一心に背負う尤物。上司先輩は皆口を揃えて「安原は優秀な部下だ」、「安原はうちの部署になくてはならない存在」、「こいつは将来幹部に上がる資質のある人間だ」と称賛する。後輩達も「安原さんに追いつけるよう頑張りたい」と欽慕する。多忙極まるあたしに息つく暇などありはしない。
「見て見て、あの人だよ」
「本当に白塗りじゃん。しかもあんなに痩せて。ひでぇな、化け物みたいだ」
あたしの羽振りに嫉妬した社員が見物に来たようだ。構わない、聞こえないふりをしてやり過ごすのが常だ。あたしは要領が良いからどんな仕事だって定時間でこなすことが出来る。定時で帰らなければならない理由は、夜の仕事のため。そう、あたしは俊彦であることに飽き足らず、自らの身体で金を生み欲望渦巻く男を虜にする、春を鬻ぐ女。昼も夜も荒稼ぎ、経済合理性の極みと言うべき二重生活。お前らにこんな仕事出来ないだろう。それが出来るあたしは無二の存在なのだ。
「安原って、あの安原君?」
「そうそう、私の同期が野毛で飲んでいた時に見掛けたって。かつらを被って、一瞬分からなかったけど、あの化粧は多分安原君だろうって」
「あの子、前から変だったけど、最近どんどん変よね。化粧も下手っぴなのに凄く濃ゆいし。こういうご時世だと下手にクビにも出来ないのかしら」
「あの子、三階の男子トイレの個室で、一人で泣いてるらしいわよ。精神おかしいんじゃないかしら?」
給湯室での女子達の会話を耳にした。あたしは横浜重工業でも有名人なのだ。
「僕の精神がおかしいって言いましたね。僕は心も身体も、どこも悪くないですよ。失礼ですよ!」
そそくさと一揖してあたしから立ち去る事務員の女性社員たち。不意に、「あたしって何をしているんだろう」と立ち止まることがある。幹部候補として入社し、我武者羅に仕事をこなし、一度は経営幹部を志した筈のあたし。あたしは勝ちたい。この会社の中で勝つことの定義があるとすれば、その究極は経営幹部に上り詰めることだ。あの頃のあたしは、今のあたしの姿を想像していただろうか。今のあたしは、あたしが心から望んだ姿なのか?
「経理課男性陣、ちょっと手を貸してくれ。この机を動かしたい」
デスクに戻って鹿砦に篭ろうとした時、あの憎き天敵こと平林課長代理が部下に声をかけている。重い部長机を男達の手で移動させたいのだという。あたしは応対しない。
「安原。お前も来てくれよ。おい安原、聞こえてんのか!」
「何ですかーぁ?」
「何ですか、じゃねぇよ! 経理課男性陣って言ってんだよ!」
「僕は机運べないですぅ」
「何でだよ、男性陣は手を貸せっつってんだろ!」
愚鈍な男が偉そうに。あたしの手は細い。親父みたいにならないよう日々努力しているから、あたしの手は女性よりも細い。このオフィスの誰よりも細いあたしの自慢の二の腕。この腕であんなに重たい部長机を運べというのか。今のあたしより後輩の女子社員の筋力の方が高いのだから、彼女に任せる方が合理的ではないか。
「僕は腕が細いので重たいものは運べないんですぅ」
「ああ、もういいや、面倒くせぇ」
良い気味だ、当たり前だ。吹き出しそうになるのを堪えた。あんな重いものを運んだらこの細い腕に筋力がついてしまうではないか。
「あの、私運びましょうか?」
後輩の女性社員が気を遣って平林に声を掛けている。あたしの腕は彼女より細い。あたしの方が、筋力が弱いのだ。ここは彼女に運んでもらう方が得策に決まっているではないか。最初から彼女に頼めば良かったのに、最初から分かりきっている癖に、なぜ態々あたしの手を使おうとするのか。
「あー、君は良いんだよ。お前、女子に運ばせて恥ずかしくないのか!」
「いえ、恥ずかしくないですぅ。それより、なんであたしにだけ『お前』って言うんですか。お前呼ばわりは止めてもらえますか?」
「あーもう、分かりましたよ、安原さん!」
平林はもうやけくそだ。無理もないだろう。平林の思考を、あたしは根底から覆しているのだ。いや、平林だけではなく、社会に薄らと蔓延っている思考。平林にとって、社会にとって、あたしは異物だ。異物は脅威と化す前に排斥されるのが世の常である。でもあたしは絶対に怯まない。脅威になってやる。より良い世界を作るためだ。これもあたしの戦いなのだ。その時、平林があたしに近寄って小声で呟く。
「安原よ、あんまり言いたくないが、一遍精神科に行ってこいよ」
平林も勘づいているのだ、あたしの崩壊を。
「平林さん、それどういう意味ですか。僕の頭がおかしいって言うんですか。重いものを運ぶのを拒否したら精神疾患なんですか。ちょっとーぉ!」
あたしはどたばたと音を立てて地団駄を踏む。フロア中の空気が凍てついた。通夜のようだった。いいぞ、あたし。もっとやれ、あたし。周囲が硬直しきっているのを見届け、あたしはすかさず便所の個室に駆け込む。そして懐からファンデーションを取り出し、再度塗りたくった。手鏡で自分の顔をまじまじと見つめる。なんて美しい白い肌。自分でも惚れ惚れする。
「しかし、平林さんも大変ですねぇ。どうしたらいいんですかね、あの人」
「ああ、あの馬鹿のことか?」
小便器の前で男が二人並んで会話しているらしい。平林と、経理課の後輩社員だ。あの馬鹿、あたしのことだ。あたしは平林に陰で馬鹿呼ばわりされていた。Z大学法学部を卒業して、社会に出たら馬鹿呼ばわりだ。皆して上っ面ではエリートなどと持て囃し、所詮は馬鹿呼ばわりなのだ。
「どうするもこうするも、どうしようもないよ。あいつはもう手に負えない」
「まあ、無視するっきゃないですかね」
「そうだな。あいつ、うちの部署に来た当初はZ大学卒業ってことで期待されてたんだけどな。まあ、あれだ。あいつは勉強が出来るだけの、ただの馬鹿なんだな」
あたしは手鏡でもう一度自分の白い肌を見つめる。こんな姿になってしまって。こんなことになってしまって。男二人が便所を後にし、あたしは依然自分の顔を見つめる。気がつくと涙が溢れていた。大粒の涙だ。身体が小刻みに震える。あたしは便所の個室で、一人嗚咽していた。こんなに生き恥を晒して、それでも尚止められない自分が憎くて、しかし誇らしくもある。あたしは自分が大好きで、自分が大嫌い。大好き、大嫌い。死にたい、生きたい。あたしは引き裂かれながら、自己嫌悪だけを押し殺して今宵も夜の蝶となるのだ。何故なら、あたしはこれでしか戦えないから。誤解をするな、あたしは別に逃げたわけじゃない。今まで散々努力した上での現状がこれなのだ。この手記を初めからお読みなら分かるだろう、あたしは自分の価値を向上させるべく弛まぬ努力を続けてきた。それはもう死に物狂いだった。あたしは自分の力でZ高校に合格し、Z大学法学部法律学科に進学した。司法試験こそ挫折したが、それでも自分の力で、世間に名を轟かせる横浜重工業の内定を獲得した。誰の力も借りることなく、全てあたしの力で名声を勝ち取ってみせた。経理部経理課に配属されてからだって、最初はそうだった。法律専攻だったあたしは簿記の知識など一ミリ足りともなかった。それでも、経理部の尤物となるべくあたしなりに努力したのだ。あたしは少々聴覚過敏で、大声で叱責されたりすると怖気付いて泣きそうになったり、泣いてしまうこともある。事実、勤務中に何度も泣いたが、それでも逃げずに乗り切ろうとした。「出来ないと言ったり、逃げようとしてはいけない」という親父の教えに忠実に、絶対に逃げ出すまいと、叱責されて涙しても乗り越えようとしてきた。簿記の勉強だって怠ることはなかった。あたしは文系で、算数や数学はどちらかといえば苦手な方である。それでも、どうにか数字の知識をものにしようと、勤務後の学習だって一日たりとも欠かさなかった。日商簿記一級を獲得するためだ。連日残業続きの日々の中に居ても、帰宅後には簿記三級の習得から始め、夜明けまで勉強することも少なくなかった。鬱病で休職するまではこのように努力を惜しまなかったのだ。あたしは勝ちたかったから。でも、力尽きてしまった。横浜重工業の内定までは順風満帆の筈だった。でも、それまでだった。あたしは鬱病のみならず、発達障害という診断まで下された。あんなに努力したのにどうしてこうなるのだ。確かに数字は弱いが、こんな仕打ちがあって良いのか。あたしは悪くない、だって頑張ったから。なら、悪いのは誰だ。会社が悪いのではないか。何故、あたしの希望通り法務部に配属しなかったのだ。確かに、あたしの同期にはX大学法学部卒の法務部志望の女子社員がいて、彼女が優先的に法務部に配属された。あたしは一文字足りとも経理部とは言っていないのだ。あたしの性分に合わない仕事をさせて、あたしを大声で叱責したり、冷たくあしらったり、来る日も来る日も長時間残業をさせて、会社だって悪いではないか。何度でも強調するがあたしだって努力をした。それなのに法務部への配置転換希望も一向に通らないし、この部署でやり抜くしかないから死ぬ気で頑張ろうとした。それでも失脚したのだ。何が「Z大学出てるってことで期待されてたんだけどな」だ。お前らが勝手に期待して勝手に失望しただけだ。あたしを都合良く振り回すのも良い加減にしろ。誰が何を言おうと最初からあたしはあたしだ。もう、正攻法でどうにもならないのなら今までとは違う戦法で戦うしかないではないか。こうやって生き抜くしかないではないか。あたしだってれっきとした人間だ、奴隷でもなければ兵隊でもない。もうこれ以上傷つきたくないのだ。あたしは親父に傷つけられ、吉井に傷つけられ、上司に傷つけられ、親友にも傷つけられている。今までも、これからの何十年間も傷つき続けるなんて、あたしはもう怖い。あたしがあたしでなくなりそうな恐怖すら感じる。何を言っても否定されるような日々なんて真っ平御免だ。あたしは上昇したい。仕事で上昇出来ないなら、もう一人のあたしになって上昇するしかない。あたしは一人で街に立って、確実に上昇している。生きていると実感している。金を払ってでも抱きたい女になって、男に必要とされて、復讐を果たして、それであたしがどれ程救われたか分かるか。涙を流して喜んだあたしの気持ちが分かるか。あたしは間違っていない。何故なら、これでしか戦えないから。もう涙も枯れた。あたしは便所の個室を後にしてデスクに戻り、その日も記事の切り抜きに専念するのであった。
(続く)
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