手弱男(たおやお)と作法 – vol.29

手弱男と作法(宮田涼介)

——あたしは男社会に敗れ、男社会への憎しみと復讐心が産んだ怪物。男でも女でもなく、ただの怪物。

「お前、毎日毎日おでんばかり食べて、よく飽きないな。いつも具材ごとに容器を分けて」

その日の夜の、ホテルの室内にて。会社役員の客は経済談義を交わした後、おでんを食べるあたしを蔑んだ。太りたくないからよ。親父みたいな体型になりたくないからよ。美しい身体でいなくてはならないからよ。こんな単純なことを皆どうして分からないのだろう。

「悪いけど、今日でお前を抱くのは最後にしようと思う」

「え、なんで? どうして?」

「お前はあまりにも痩せ過ぎていて魅力が無い。それに、セックスの時だって最近は全然反応がないじゃないか。お前とやっていると虚しくなる。正直に言ってイチゴーなんてもってのほかだし、八千でも厳しい。値引きして欲しいくらいだよ」

「何よ、女の子に向かって失礼な人! このスリムな身体の魅力が分からないっていうの?」

「お前は女じゃない! それにスリムでもない、病的に痩せているだけだ! 最初からおかしな奴だとは思っていたが、ここ最近ますますおかしいぞ、お前」

「あたしは女! 娼婦! ジェンダーハラスメントで訴えるわよ!」

「お前だって分かっているんだろう、自分は女じゃない、男の出来損ないだってことをな! 男に対する腹癒せで女ぶって娼婦をやっているだけだ!」

「それ以上言ったら本当に訴えるわよ! ええ、あたしはあんたみたいな男なんか大嫌いよ! 死んで欲しいくらい大っ嫌いよ! どうせあんたも心の中ではあたしのことなんか見下していたんでしょう! あたしはこれでも横浜重工業で会社員やっているの! 一部上場の大企業よ! あんたのところみたいな零細企業とは訳が違うのよ! こう見えてもお金だってあるし、真っ当に生きてんのよ!」

「何かにつけて横浜重工、横浜重工って。だから何だっていうんだ! 横浜重工だからそんなに偉いのか? お前、どうせ会社じゃ飼い殺しだろ? 経理だか何だか知らないが、書類整理くらいの仕事しかさせてもらってないんだろ、違うか? 俺が上司だったらお前みたいな部下は即クビだ!」

「うるさい、慰謝料寄越せ! 男を振り翳して多様性を否定した罪を償ってもらう! これは侮辱よ!」

「お前こそうるせぇな! だったら二万でどうだ、手切金だ!」

「ホテル代も出しなさいよ!」

口論の末、男は万札二枚を卓上に叩きつけ、部屋を後にしようとする。あたしもむしゃくしゃして、ベッド脇に置いてあった未開封のコンドームをバッグにしまう。

「ちょっと待ちなさいよ!」

「うっせぇな、何だよ!」

「一つだけ聞きたいことがある。どうしてあたしを変だと思った? 最初から変な奴だと分かっていて、どうしてあたしを買ったの?」

「そんなことも分からないのか。Z大学を出て有名企業に勤めてお金もある、まして心が女でもなければゲイでもないのに男を相手に身体を売る女装がどんな奴か気になったからだよ。お前、他の客にもそう自己紹介してんだろ? 社員証なんか見せつけてさ。誰も好き好んでお前のことなんか買わないよ。特に今のお前は。ただの怖いもの見たさだ」

図に乗りやがって、言いたい放題吐き捨ててくれるものだ。罰を下してやる。あたしは右の掌を広げ、腕を斜め上まで振り上げ、存分にスナップをきかせ、男の頬めがけて愛の天罰を喰らわせた。殊の外、乾き切った良い音がしたものだから思わず吹き出しそうになる。男は咄嗟に表情を歪め、叩かれた頬を手で抑えた。

「いってぇな、お前良い加減にしろよ!」

「そっちこそ良い加減にしてよ、今更調子に乗るんじゃないよ!」

男は、もううんざりだと言わんばかりに、あたしに背を向けてそそくさと荷物をまとめ、スーツを着直し、部屋を後にしようとする。ざまあ見ろ。あたしを怒らせるとどうなるか、思い知ったか。この罰当たり。

「安原さんよ、お前今幾つだ?」

「三十四歳だけど、それが何よ?」

「まだ若いじゃないか。明日にでも堅気の世界に戻った方が良い。あんたはここでこんなことをやる人間じゃないよ」

「まだあたしに説教する気か!」

「サラリーマンの先輩として、最後に忠告するぞ。良いか、仕事でぶち当たった壁は仕事でしか乗り越えられない。男だったら逃げるなよ。あと三十年近く働かなきゃいけないんだ。男は仕事で認められてなんぼなんだよ。叩かれて鍛えられて、それでも這い上がるんだ。皆そうやって生きてんだ。横浜重工で何があったのか知らないが、こんなところに逃げ込んだって自分の首を絞めるだけだ。どんなに取り繕ったって、その身体を見ればあんたが如何に壊れているか分かる。安原さんよ、こんなこと続けていて楽しいか?」

「当たり前でしょう、楽しいからやっているの!」

自信を持って即答してみせた。楽しいに決まっているではないか。男が絶頂するその顔を見る時、あたしは言いようのない程の恍惚を味わうのだから。

「どうだかねぇ。あんた、仕事のストレスや周りへの欲求不満の当てつけで身体売っているだけなんだろ。自傷行為だよ」

「散々あたしを犯しておいて、今更偉そうなこと言わないでよ!」

「俺はもう忠告したからな。明日からよーく考えろ。男なら真っ直ぐ戦えよ」

いつしかあたしのウィッグは外れて床に落ちていた。男が部屋から立ち去って、空調の音だけが無常にも響き渡る。よく言うわ。お前だって初めの頃は、あたしを犯して恍惚の表情を浮かべていたくせに。あの顔をあたしは忘れていないのだ。今更あたしを指南するなど笑止千万だ。男なら、男だったら……。あたしの目に狂いは無かった。決まっていつも、こうなのだ。悪は純然たる悪としてあたしの前に立ち現れたりなどしない。あたしがあたしを尊重するように、奴らも己を尊重し、あくまでも善なるものとしてあたしの目の前に立ち塞がるのだ。ウィッグを装着し直し、洗面所のアメニティを一つ残さずバッグにしまい、あたしは思わず独り言を呟いた。

「やっぱり、あたしの大嫌いな男だったわ」

 ここのところ身入りが悪い。以前は四人の客を取るなど容易いものだったが、最近は馴染みの客も会ってくれなくなった。青果店の夫婦、居酒屋の調理人、阪東橋の風俗店のキャッチ。この界隈の人々は皆あたしを異物でも見るかのように、あっちへ行けと促す。あのヤクザ男だって近頃は憐れみの視線を投げ付けるだけだ。

「こっち来んな、気持ち悪いんだよ!」

「何だお前、化け物みてぇだな」

「お前、自分の姿を鏡で見てみろよ。モンスターだぞ」

路上で(おもむろ)に声を掛けて見てもこの始末だ。あたしの日当たり収入は明確に下降線を辿る。

「ごめん、忙しいから暫く会えない」

「転勤になったからもう会えない」

SNSでもこのような状況だ。こうして返信をくれるのならまだましなもので、何も言わずにブロックされることも珍しくなくなった。

「あなた、この間ネパール人と三千円でやったわね。あなたのせいでここの相場が崩れているのよ」

立ちんぼ仲間からの心無い侮蔑。あたしの娼婦人生にも翳りが見え始めている。あたしは三千円の女。何も感じない。何の喜びもない。これがあたしの夢見た性の境地だろうか。 あたしの売春は所詮憎しみのぶつけ合いでしかない。客はあたしを見下しているし、あたしも奴らを蔑んでいる。そこに愛情など無い。あたしは男社会に敗れ、男社会への憎しみと復讐心が産んだ怪物。男でも女でもなく、ただの怪物。

 確かにあたしはネパール人に三千円で身を売った。それも三人で三千円だ。会社で悪態をつかれて便所で泣き、顧客だった男からも罵られ説教され、失意に堕ちていた。もう誰でも良いからあたしを必要として欲しくて、声を掛けたのは異郷から出稼ぎにやってきたという男。

「すみませんが、僕にそっちの趣味は無いのです。僕は結婚もしているし母国に家族が居るので」

「良いじゃない、気持ち良くするからさ。お口だけでも良いわよ、五千円で」

「いや、でも……」

「あなた、こっちに来てから奥さんともしてなくて、気持ち良くなれてないんでしょう。ここら辺のお店も高いものね。あたしは安いわよ。三千円で良いわよ、三千円」

後に判明することとなるが、この男は不法滞在者であった。結局、三千円という破格に押される形で彼は承諾し、交渉は成立する。妻も居るというのに男のあたしを買うとは余程の欲求不満か、或いはあの客が言い放ったように、ある種の怖いもの見たさによる衝動か。彼はネパール人仲間二人と寂れたアパートで暮らしているという。建物に入った瞬間の、あのカビ臭い匂い。入口の蛍光灯は切れかかって点滅し、階段を昇ると仄かな明かりが踊り場を薄気味悪く照らしていた。嫌な予感がする。あたしの市場価値が暴落しようとしていた。塗装の剥げた扉を開けるとネパール人仲間が待ち構えている。碌に掃除をしていないのか、異臭が鼻についた。この、いかにもホモソーシャルな空間に嫌悪感を覚える。衣類は畳まれないまま床に散乱していた。キッチンのシンクの食器はいつから放置されているのか。炊事はしていないのであろう、コンロの周りだけは清潔が保たれているが、それが逆に憎らしくもあった。あたしが生理的に受け付けぬ男性性がこの空間には凝縮されている。うちの同居人とは大違いだった。あいつという存在の尊さを思い知る。この小汚い部屋で、あたしは三人から順繰りに犯された。三人とも余程欲求不満だったのだろうか、それともお酒の入った勢いだったのか、はたまた好奇心か。二人に傍観されながら一人に犯されるという業を三回繰り返す。あたしはネパールの言葉は分からないが、あたしを指差すネパール人達のその顔色には明確に侮蔑が見て取れた。こいつ、痩せ過ぎて気持ち悪い、反応がないから面白くないなどと侮辱しているのだろうか。最早体を重ねるのに喜びも悲しみも無いが、これほどの空虚があたしを覆うのは初めてだった。体臭もきつく、思わず顰め面をした程だ。三人を相手に破格でこの体を売ったという純然たる事実だけがあたしの脳内を反芻した。去り際に三千円という報酬を受け取る。たったの三千円。こんな辱めを受けて千円札三枚だ。男達に復讐を繰り返した代償としての屈辱。吉井が今のあたしを見たらどう思うだろうか。元々はお前達への怨念に突き動かされたのだ。でも、こんなことになるなんて想像していただろうか。こんな喜びもへったくれもない情事を繰り返すなんて。どうしてこんなことになったのか。いや、もう思い出したくもない、過去の経緯なんかもうどうでもいい。あたしはもう振り返りたくない、前しか見たくない。あたしはどう足掻いたって吉井みたいにはなれない、そんな資格はない人間だったのだ。あたしは何をしにこの地に降り立ったのだろう。あたしは復讐がしたかった、あたしは戦いたかった。戦い抜いて得たものは栄光であり処罰だった。男を支配する栄光、自分が穢されるという処罰、宿命に抗った故の処罰。男達に蹂躙されるのがあたしの宿命。宿命を否定する背徳と処罰。この三千円もあたしへの処罰。

「うるさいわね、何が『あなたのせいで相場が崩れた』だよ。あたしのせいじゃない、あいつらのせいよ。あたしが、たったの三千円でも誰かに身を売らなければ、と思わせた男達のせいよ。あたしを圧した男達のせいなのよ。責める相手を間違えているわ。見てよ、これ。あたしの中学時代の同級生の吉井って男。こっちは、あたしの会社にいる平林って男の名刺。それから、この写真に写っているのがあたしの親父。こいつらの連絡先はここに書いてあるから、文句があるならこいつらに言ってよ!」

呆然とする街娼仲間に、無理矢理に手書きのメモだけ渡してその場を立ち去った。

(続く)

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