手弱男(たおやお)と作法 vol.2 – 宮田涼介

手弱男と作法(宮田涼介)

「御免ください、安原涼太の父ですが、息子の遺品整理に参りました」

師走の昼下がり、挨拶も程々に如何にもバツの悪そうな面持ちでずかずかと私の家に上がり込むのは涼太の父親だ。事件から九ヶ月もの月日が過ぎ、今更になって練馬からはるばる逗子までやって来た。涼太の部屋は事件後手を付けていない。父親は私の顔なんか見たくないのであろう、涼太の部屋を案内するや否や黙って部屋に向かい、ぴしゃりと戸を閉めた。そして、聞こえよがしにどたばたと音を立てる。私は居た(たま)れなくて、さっき拭いたばかりのダイニングテーブルを再び拭く素振りをしながら時間を潰す他ない。涼太の部屋は四畳半の和室で家具は少ない。私は椅子に腰掛けて、リビングの壁掛け時計の秒針をしきりに凝視し、腕組みをしながら息を殺していた。

 横浜サラリーマン殺害事件。世間を騒つかせるセンセーショナルな事件であった。横浜市中区日ノ出町の古ぼけたアパート一室で、三十代の会社員男性がネパール人男性によって殺害されたという痛ましい事件である。被害者男性はアパートのオーナーによって発見され、その時既に死後数日経過していたとされる。第一発見者のオーナーは、部屋の鍵が施錠されていないことや、わずかに鼻をつく異臭が気になりつつも、部屋で横たわっている人物が熟睡していると勘違いし、放置してしまったのだという。それから日が経ち、あの部屋がどうなっているのかと思い立ったオーナーが再びアパートを訪れたところ、熟睡していると誤認した人物が死亡していたことに漸く気が付き、すかさず警察に通報して事件となった。遺体発見時、被害者はベージュのロングコートを着用し、頭部左側のショルダーバッグからは株式会社横浜重工業の社員証、現金四七三円入りの二つ折り財布、ラブホテルから連日持ち出していた未使用コンドーム二八個、他人名義の預金通帳や定期券、醤油入れ、袋詰めの生姜等が発見された。着衣の乱れは無かったが、ショルダーバッグの取手は四十キロもの引張破断荷重(ひっぱりはだんかじゅう)により千切れており、頭や顔に打撲の痕があったという。また、被害者は腰まで掛かる長さの黒髪ウィッグを着用しており、その髪にボールペンが巻き付いている状態だったらしい。警察は、現場の便所に放置されていた使用済みコンドームの体液から容疑者のネパール人男性を特定。その男は現場アパートのオーナーから部屋の鍵を預かっていたという事実もあり、強盗殺人容疑で逮捕となった。この容疑者は事件現場と隣合わせのマンションで複数のネパール人仲間と居住していた不法滞在者で、被害者と接触後に支払い報酬を巡って口論になり、逆上して首を絞めて殺害、財布から現金四万円を奪い現場から逃走したとされている。被害者は、昼間は堅実な会社員でありながら、夜は男相手に街娼という全く別の顔を持っていたことが明らかとなった。これはネットを通して明るみになった事実である。ネット上では、被害男性の人となりについての興味関心が次第に加熱することとなった。ネット住民を惹きつけるこの被害者こそ、私のルームメイトでありたった一人の親友、安原涼太というわけだ。

 黙々と遺品整理を進める父親を扉越しに訝しみつつ、私はダイニングの床を雑巾で水拭きする。それでも時間を持て余し、自室で漫画の原稿の筆を進めた。二人で顔をつけ合わせ食事を共にしたダイニングテーブルは、一人では少々手広過ぎる。他人のために腕に縒りをかけて料理を拵える機会など、今後の私の人生に於いて二度と無いであろう。遺品整理の物音だけが無情に響くこの室内で、父親は何を思うか。よもや、「お前のせいで息子はこんなことに」などと恨み言を胸中で叫んでいるのではなかろうか。機転を利かせ、お茶か珈琲でも淹れようかと思うが、何もかも見透かされているようで話そうにも話し掛けられない。

「終わりましたので」

冷淡に声を掛け、そそくさと帰り支度をする父親。

「そうですか」

「息子が世話になりました」

「あの、部屋に残っている家具はどうなさいます?」

「ご自由になすってください。では、さようなら」

父親は一貫して無愛想で、最後の言葉を吐き捨てるように投げつけてアパートを後にする。窓の外の鳥達の声と、木の葉のそよぐ音色にしばし耳を傾けた。台所に置いてある南部鉄瓶に浄水を注ぎ、コンロで熱する。コップに注いだ白湯の甘みを味わうようにゆっくり飲み干した。

「行っちゃったな」

吐息混じりの草臥(くたび)れた声で、独り言を呟いてみる。

「とりあえず、気晴らしに外の空気でも吸いに行くか」

アパートを飛び出し、目と鼻の先に位置する蘆花(ろか)記念公園に向かった。敷地に入って坂道を登り、第二休憩所の庭園で()いだ海を遥かに望む。私にとって、人には知られたくない憩いの場。坂の下にはバーベキューの出来る広場もあるが今日は利用者が居らず、辺りは木々のざわめきだけが響いた。海を眺めるその背後には平屋建ての古民家が佇む。いつの時代に、誰が居住していたのかは分からない。板で覆われたその壁には木々が影を描いていた。時が止まったこの場所を独占し、何も考えずゆっくり彷徨い歩くだけで良い。木の葉から漏れる陽の光に手を翳してみたり、石段に座って頬杖をついてみたり、それだけで充分なのだ。休憩所の付近には、現在はもう使われていない登り窯がある。恐らく、陶器か何かを焼いていたのだろうが、この窯が使われていた頃に思いを馳せてみた。このひと時が至福この上ないのだ。ここでの暮らしを始めて、心が晴れぬ時にはこの景観を訪ねている。たまたま引っ越した自宅からほど近く、この公園に足を踏み入れた時、私はこの景色に呼ばれて逗子に移住したのだと確信したものだった。秋になれば紅葉も見ものである。椛は塩害に弱く、海沿いの街で紅葉を鑑賞するのは難しいのだという。しかし、ここは潮風を上手くかわしている立地なのだ。海を望みながら紅葉を愉しむ。この地での一興であろう。

 それにしても、善人ぶっていたが随分と感じの悪い父親であった。特にあの眼つき。私を見下すような顔をして。知性溢れる雰囲気だけ漂わせているが、どうせ碌でもない下衆男に決まっている。ところで、これからどうしようか。涼太も死んで、遺品も一掃され、あのアパートでこれからも暮らすのだろうか。空いてしまったあの部屋は、仕事で漫画を描く為の書斎にしても良いのだが、家賃は折半出来なくなったし、何よりも涼太の死霊が現れるかもしれない。私は涼太に祟られるのだろうか。彼とは何度かつまらぬ諍いもしたし、その度に涼太の機嫌を損ねたこともあったろう。中学時代からの付き合いで、彼のことは人並み以上に知っているつもりではいた。それ故に、飽くまでも彼を思ってくだらぬ指摘をして、臍を曲げる彼の表情を歯痒い想いで見届けたものだった。とはいえ、今の逗子での暮らしは気に入っているし、近隣で良さそうな引越し先が見つかった時に転居すれば良いか。実家に帰るつもりはない。成人向けの同人漫画家というのは、そう容易く両親の理解を得られる職業ではない。最初のうちは生業となり得るか懸念はあったものの、ここ近年は生活も安定している。誰に雇われるわけでもなく、自分だけの力量で生活費、娯楽を賄い、どうにか逗子での暮らしを謳歌出来るようになった。我ながら上手くやったものだ。事件から月日が経ち、今の所は涼太の霊気を感じることはないのだが、何れにせよ、それを察知したら引越しを検討しよう。

 宵闇迫る頃合いに帰宅し、涼太の居ないこの部屋で私一人きり。事件後、涼太との他愛ないやり取りの尊さを幾度も思い知った。自室に閉じ籠って作品制作に没入するだけの日々。僭越ながら液晶画面越しに私の作品を心待ちにしている人々は数万人に及ぶ。イラスト制作、そしてネットを通して人々と会話するのである。一頻(ひとしき)り制作に励んだと思えば、気紛れに逗子や鎌倉界隈の飲食店に足を運んで、「今日の海はこんな感じ」などと抜かしつつSNSに投稿する為の写真を撮影し、フォロワーからの「わぁ綺麗」という反応を眺めて悦に浸る。自由気儘且つ孤高の生活様式。涼太の部屋は、先ほど両親が遺品を持ち去ってしまったので、箪笥などの家具以外は(もぬけ)の殻だ。「ご自由になすって」と吐き捨てて残した家具の一式は差し当たり使い道もなく、自費で粗大ごみに出す他ない。父親が訪れる以前に、目ぼしい遺留品は予め私の部屋に匿っておいた。涼太の手記となるこの冊子は、涼太自身の生き様そのものが綴られているだろう。こんなものを、あの男に見せてはなるまい。私は、前もってこの手記だけを別室に隔離させたのだ。それが、今の私に出来る只一つの禊だと思った。

(続く)

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