Z高校を卒業した私と安原は共に、Z大学法学部法律学科へ進学した。いつまでこの腐れ縁が続くのかと思ったものの、クラスがかけ離れていた為、涼太の大学生活は風の噂程度にしか聞いていない。Z高校在学時から司法試験に受かって弁護士になると意気込んでいたくらいだから、ダブルスクールで法律の勉強に励んでいただろう。また、三年間の苦い男子校生活を晴れて脱出したのだから、女の子の沢山在籍するサークルに顔を出していたかもしれない、などと思っていた。
久方ぶりに涼太の近況を耳にしたのは、私が大学二年の頃だった。涼太と同じ法律の専門学校に通う知人から、涼太の母親が他界したこと、それ以来涼太が学校に姿を現さなくなったと聞いたのだ。涼太の母親とは、中学の頃にあの絶縁宣言を喰らってから一切の音沙汰は無かった。今にして思い返せば、肌のトーンに合わぬ妙に白塗りの厚化粧やブルーのアイシャドウは晩年の涼太の風貌を彷彿とさせる。あの当時、中学生男子の私でさえ違和感を禁じ得ぬ化粧だったのだ。高飛車で、私を試すかのように家庭事情や将来の展望を問い正し、私が涼太の友人に相応しくないと看做すや否や「息子と関わるな」と一蹴したあの母親。きっと、「あの子はたまたま頭脳に恵まれただけで、大してやる気もないし高い志もない。あのような子はあなたに悪影響だから、関わるのは止めなさい」と説いたに違いない。いついかなる時も直向きに、高い目標を掲げて勉学に勤しみ、遊び呆けない博識な男。それを何よりも美徳とした母親は、涼太をその理想に適う男に育て上げるべくあらゆる手を尽くしただろう。それを阻害しかねない人物や思想は徹底排除し、息子の交友関係をも管轄していたのだ。涼太はZ高校に入学以降も、私と言葉を交わしたことは秘密裏にしていた。私とのメールのやり取りでさえ、一読後に削除していたくらいだ。涼太は結局、Z高校時代も友人には恵まれなかった。涼太自身の行動が災いしたこともあるが、母親の御眼鏡に適う生徒も現れなかったのだろう。
そんな涼太の母親が、唐突に忽然とこの世を去った。涼太にとっては青天の霹靂だったろう。学内の知人曰く、母親の死後に彼を大学で見かけた時、病的に痩せ細っていたのだという。それまで野心に満ちて尖っていた彼も、話しかけられない程に闇のような空気を身に纏っていた。程なくして涼太は専門学校を自主退校し、司法試験への夢も断たれ大学も休学し、そこからまた暫くの間は消息が途絶えていた。
一方の私はというと、相変わらず漫画の制作に感けてばかりであった。サークルにも入らず、アルバイトもせず、クラスのコンパにも顔を出すことはなかった。法律の必修科目は留年しない程度にこなし、一般教養科目では、自らの創作活動の糧となりそうな美術、文学、社会学、哲学などを受講していた。空き時間は図書館の片隅で息を潜めながら原稿を描き進めるか、一般教養の習得に勤しむなどしたものだった。三年に上がると東京都のキャンパスに移り、就活を控える周囲の学生達は、それまでの華やかな学生生活とは打って変わって生真面目で志の高い大学生へと変貌を遂げる。名の通った企業に執着する学生達は金融、証券、総合商社、大手メーカーなどの企業研究に精を出し、法曹界を目指す学生達は勉学に余念が無い。私だけは相変わらずで、大学図書館や近隣の喫茶店に篭って創作を続けていた。卒論が無い、教授の話を聞いているだけで良いという理由で入室した保険法の研究室は、教授の二日酔いにより休講になるようなところであった。漫画家としての私は、この頃は前述の合同誌ではなく、私個人による漫画制作に完全移行していた。学生時代の経済は、その漫画の売上で得た収入で回していたのだ。更に技術を高めようと、上級者向けの絵画教室にも通ったし、漫画仲間の伝手で美大に潜入したりもした。私は就活もせず、只管に創作活動を続け、将来はこれで食べていくしかないと決心していた。両親に口出しされぬよう、リクルートスーツで家を発ち、図書館や飲食店で漫画を描き続ける。しかし、一向に就職先が決まらないので両親との溝は次第に深まった。私の素行が徐々に明らかになると、「法学部なのに碌に法律の勉強もしていないのか」、「ゼミで何を勉強してきたんだ」、「Z大学に入ったのに友達も作らないで、今まで何をしていたんだ」と詰るようになる。漫画家になるという夢だけは胸中に留めていたが、これでは創作活動も儘ならなくなるだろうと思った私は、大学を卒業した暁に行き先を告げず実家を出ることにした。両親も、Z大学を卒業したのに就職もせずにほつき歩く息子なんか恥ずかしくて他所に顔向け出来ないと嘆いていたし、その懸念も解消され互いに不幸になることも無くなろう。逗子という街を移住先としたのは、特に深い理由があったわけではなかった。ただ、通学する時に利用していた湘南新宿ラインの終着駅だったからその名を知っていただけだ。私は両親とは距離を置きたかったが、あまり都内から遠ざかると同人イベントに一つ参加するだけで交通費が嵩むので、神奈川県内なら丁度良いだろうと思った。そうしてこの街を拠点とし、創作を継続していたのである。
涼太が再び私に連絡を寄越したのは、最後に彼の噂を聞いてから実に七年後だ。当時二七歳、私が逗子に居住してから四年ほど過ぎた頃だった。桜山の山間に身を潜めるように如何わしい作品の制作に励む、そんな生活も大分板についた頃合いである。収入は主に、同人誌即売会での売上や、「コミッション」と呼ばれる、ファンから依頼を受けてイラスト等を描き上げる仕事であったり、月額制でファンから寄付を頂きつつイラストを投稿するサイトなどが収入源である。初めは、逗子駅前の喫茶店でのアルバイトと掛け持ちであったが、イラスト制作が軌道に乗り収入も安定して来たところで、晴れて同人絵師を生業とするに至ったのだ。
「申し訳ない、お前の家に住まわせてもらえないか」
SNSを経由して、あまりにも唐突な連絡であった。確かに中学以来の間柄ではあるが、高校卒業以来会っていないのに、いきなり私の家に住まわせろとは何事か。私は咄嗟に断ろうとした。ここ逗子に巣篭もりながら作品制作に励む生活は気に入っていた。そこにあの涼太が水を差すなど耐え難い。いくら旧友とはいえ出来ない相談だ、他所を当たってくれないかという文字を打ち掛けた。しかし、私の中で邪な感情が蠢く。私にとって涼太は未知なる生物、可笑しくて興味深い存在だった。そんな涼太が今どのような人生を歩んでいるのか覗き見てみたい。無事、司法試験には合格したのか、弁護士の夢を叶えたのか、生涯の伴侶は見つけたのか。その次第によっては、彼を住まわせてやっても良いかもしれない。私は涼太を試すことにしたのだ。
「とりあえず、今逗子に住んでいるから、来てもらえないか。事情はその時に聞くから」
まんまと約束を取り付けた。その翌日、正午過ぎにJR逗子駅東口で待ち合わせる。涼太は挨拶もほどほどに、焦燥とした様子だった。それは彼の人生設計の狂いを窺わせるには充分過ぎる程だ。私の期待値は高まった。涼太が逗子を訪れるのはこの日が初めてだ。逗子の街を気紛れに案内しつつ、身の上話を聞いてやろうと思った。逗子駅前の交差点を右折すれば銀座通り商店街に差し掛かる。まずは、左手にある定食屋で昼食をとることにした。街に根ざした、こぢんまりとした定食屋。入店して右手前のテーブル席に腰掛ける。棚に並ぶ焼酎やウィスキーの瓶は、地元の常連客のボトルキープであろう。入口扉の上に設置されるテレビはタレントの不倫を執拗に嗅ぎ回っていた。ランチメニューを一頻り眺め見て、私は地魚の煮付け定食を、涼太は刺身の盛り合わせ定食を食す。涼太はまともな食事をとっていないのか、しきりに「美味しい」と呟き、刺身を一切れ一切れ大事そうに咀嚼していた。食事の際、涼太の勤め先が横浜重工業であることを知る。弁護士の夢は破れたとはいえ、横浜重工業とは大したものだと思った。その名を知らぬ者はいないであろう、大手の自動車メーカーである。また、経理部経理課に勤務し、財務会計業務に日々勤しんでいることや、有価証券報告書の作成にも携わっていると聞いた。私は、自分の職業を尋ねられる時、「漫画家、イラストレーター」と回答する。そうすると次の決まり文句は、「どんな漫画ですか、どんな絵を描いているんですか?」だ。これにはいつも辟易させられた。成人漫画と馬鹿正直に答えるとその場の空気が滞るので、「まぁ、色々と」などと言って茶を濁す。自分の仕事について他人に語るのはあまり気が進まないのだ。両親とも絶縁状態が続いていた。自由を得た私であるが、それでも職業を語るのは未だに抵抗がある。私は海に近いこの街で、友人も作らず独り黙々と描きたいものだけを描く。自分の仕事について雄弁に語れる涼太を羨んだものだった。 態々逗子まで来てくれたのだからお代は私が出してやっても良いだろう。食後のアフタヌーンティーは、横断歩道を渡って右手にある、老舗の西洋菓子店にしよう。上辺の身の上話はもう充分だった。ここからが肝心要である。居候に思い至った経緯をじっくり問い詰める。
(続く)
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