俺が初めて性風俗に踏み込んだ時のことを話そう。忘れもしない二〇二一年の五月のことだ。職場でこっぴどく叱責を喰らわされ、失意の淵に堕ちた俺は、その足で桜木町駅の向こう側へ足を運ぼうと思った。俺がやるべき復讐について考える中で、あの戦地を思いついていたのだ。あの一帯が旧赤線地帯であることは知っていた。長髪のウィッグ、緑のロングスカートは予め購入していた。どこかで変装しなければ。目ぼしい場所を捜索しているうちに、気が付けばランドマークプラザ五階の男子便所に漂着していた。変身するにはうってつけの清潔感のある便所。俺は個室でスカートに履き替え、洗面台の前で、慣れない手つきでウィッグを装着した。鏡の前には見たことのない俺が現れた。俺は昂っていた! 俺の生きづらさの正体を、今この瞬間に確信したのだ。俺を今まで抑圧していたものの正体、俺を苦しめ続けていた毒牙の正体。この変身は、それらから解放されるための手段となろう。この新しい俺に名前を付けよう。何故って、この容貌で「涼太」を名乗るのも塩梅が悪いではないか。俺は今この瞬間に生まれ変わったのだから、生まれ変わった俺には新しい名前が必要だ。そうだ、「さゆり」にしよう。俺の母親の名前。父親の支配から逃れられず、その身を滅ぼしてしまった哀れな母親。男の言いなりで、自分を見失ってしまった悲哀なる女性。俺は他人を我が物顔で支配する全ての男が大嫌いだ。俺にとって親父は、大嫌いな男の象徴である。だから俺の新しい名前は、親父が殺した母親のそれでなくてはならない。我ながら完璧ではないか。こうして俺は、「さゆり」としてランドマークプラザを飛び出したのである。
俺はまず、野毛の風俗店の門を叩いた。客としてではない、風俗嬢として。俺は女装専門の派遣型風俗店「♂っ娘宅急便」のデリヘル嬢として勤務を始めた。初めて会社から野毛に向かった時の胸の高鳴りを今でも覚えている。見慣れた筈の桜木町駅の遊歩道を歩いているのに、全く新たな景色に見えた。きっと生まれ変わったからである。エスカレーターを降り、コレットマーレを横目に桜木町駅へ向かった。改札へは向かわず、駅の裏側へ抜ける。駅を隔てて街の景色は一変し、俺は一度深呼吸した。これから向かう魔境が近づいているのだ。覚悟は決めていたが不意に身体が強張り、俺はそっと胸を摩った。大丈夫だ、何も怖くない。鼓動が落ち着くまでゆっくりと胸を摩り続ける。今一度、意を決して一歩一歩、靴音を鳴らし着実に進んだ。飲み屋街の犇く野毛界隈の雑居ビルに「♂っ娘宅急便」の事務所は佇んでいる。派遣型の風俗店なので、客から指名を受けて、俺が客の元へ足を運ぶ。そして事を済ませるだけだ。逗子・葉山行きの京急線最終電車まで只管に指名を待ち続ける緊張の時間。俺は「女装子」の風俗嬢として二足草鞋を履くことにしたわけだ。事務所の待合室には俺以外にも数名の女装が居る。皆、二十歳前後の若者ばかりだ。俺以外の女装達は皆、待合室で和気藹々と会話をしているのが耳に入る。この間の客はどうだった、新しい化粧品を買ってみた、好きな男性のタイプはどうのこうの、呑気な会話を傍らで聞かされ些か辟易する。三十路を過ぎた者は俺だけだった。周りは皆、男とは思えぬほどの華やかな服装と化粧で着飾っている。この店で唯一の、地味な服装、地味な化粧、年増の女装。どうしたものか。会社ではまだまだ若手なのに、ここでは打って変わって最年長なのである。俺は周りの女装とは話さない、話したくもない。俺とお前達は違うのだ。何故なら、俺は昼職をやっているから。確かに年齢では負けているかもしれないが、社会的な地位は俺の方が遥かに上なのだ。次元が違う。お前らは一流企業の荒波に呑まれた経験も無いだろう。俺はあるのだ。周りの奴らがファッション誌なんかに夢中になる中、俺は自己啓発として刑法の判例集を読み耽り、会社の書類を眺める。意識の違いを見せつける。
「はい、♂っ娘宅急便です。あー、若い子ですね。いい子が揃ってますよ」
横浜重工業の有価証券報告書に目を通す俺を尻目に、周りの女装達は次々と客の元へ赴く。夕方六時半頃に事務所に入り、気がつけばもう夜の十時を回っていた。待合室に居るのは、電話番の男、今年十九歳になるという女装、俺。電話が鳴るのを待ち続け、悶々としながら所在無げに書類を凝視する。最終電車までの時間も刻々と迫る。若い女装は話し相手も居らず鬱屈としている。無理もないだろう、俺はこいつに話しかけられまいと自分の世界に陶酔している。俺のことを怪訝な目をして見つめている。こいつ、なんでその歳で風俗嬢なんか始めたのだろうと、そんな目つきだ。
「ちょっと、何見てんのよ」
「あ、すみません……」
若い女装はすかさず目を逸らし、スマートフォンのゲームか何かに明け暮れている。誰か、俺を呼んでくれ。俺を必要としてくれ。俺を、金を出してでも抱きたい女にしてくれ。
「もしもし、♂っ娘宅急便です。あー、今ですね、十九歳の子と三十ちょいの子がいるんですけどもね。あーはいはい、若い方ですね、かしこまりました」
若い女装が俺に一揖して待合室を去る。電話番の男と二人きりになった。今日も素寒貧である。俺はスカートの生地を握り締めた。終電までには帰らねばならないから、もう暫く指名が入らなければ、この惨めな想いと共に帰宅することになろう。
「どんなお客でも回してください、お願いします」
「そう言われてもねぇ。指名が来ないことにはねぇ」
誰でも良いから俺を受け入れて欲しくて悪足搔きをするも、虚しさは募る一方だった。結局この日は一人も客がつかず、最終列車に乗り込んだ。今日だけではない、こんな日が数日続くこともざらだ。
「なんだ、もっと若い子が来るかと思ったのに」
「さゆりさん、化粧下手だなぁ。もうちょっとどうにかなんないの?」
「もしもし、もうちょっとマシな子を寄越してくれません? チェンジで」
漸く指名が入ったと思いきやこの始末だ。指名されたって何の喜びも達成感もなかった。ただ事務的に御奉仕するだけ。♂っ娘宅急便の勤務は長続きしなかった。客がつかないのに店に所属したって何の意味もない。惨めさが募るだけなのに無理に続けたって仕方がない。上手くいかないのなら戦法を変えるまでだ。客がつかないなら自分から探しに行けば良い。街に立って直引きしてやる。そうして俺は日ノ出町、伊勢佐木町界隈に自ら足を運んだというわけである。
(続く)
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