手弱男(たおやお)と作法 vol.15 – 宮田涼介

手弱男と作法(宮田涼介)

 二〇二四年二月一八日 神奈川県逗子市桜山八丁目にて 安原涼太 記

 まず初めに断っておくが、恐らく俺は近いうちに殺される。相手は多分、通りすがりの中年親父だ。しかし今更、怯えて生命保険に入るようなことはしない。受取人も居ないのに生命保険など入ったところで仕方あるまい。もう一つ、俺は男性を相手に春を(ひさ)いでいるが、セックスは嫌いだし、男は嫌いだ。死んで欲しいくらい嫌いだ。男は得てして俺を見下したり、揶揄(からか)ったり、罵倒したりするから大嫌いだ。父親、中学時代の同級生、高校時代の運動部の奴ら、職場の同僚、上司、俺の身体を買う奴ら、みんな嫌いである。女も嫌い。俺のことを気持ち悪がって虐めるし、陰口を叩くから嫌い。俺を虐めるのに、見て見ぬ振りして手を貸さない奴らも嫌い。そして俺は俺自身も嫌い。ちっとも器用に生きられぬ自分が嫌い。大嫌い。みんな死ね。

 さて、俺は別にもう殺されたって構わないと思っている。何故なら、俺の心は既に死んでいるからだ。俺はいわば仮死状態で、身体だけが存在しているに過ぎず、心の中はもぬけの殻でとっくのとうに死んでいる。いつ死んだのか分からない。気がついた時には死んでいた。俺は近々身体の自由も失って純然たる死を迎えるから、その前にこの冊子を執筆することにした。俺という存在が存在たらしめたその理由を、書き残さないのは勿体無いと思ったからだ。禿筆(とくひつ)だが最後まで目を通してもらえたら幸甚である。

 俺には小学生までの記憶が無い。地味で目立たない子だったと親から言われたことはあったが、何をして、何を思い、誰と話し、どのような日々を送っていたのか、その記憶が全く無いのだ。しかし、そんな俺の人生を支えたのがあいつだった。中学からの付き合いで、同じZ高校に進学し、大学も同じくZ大学法学部法律学科。そして、今俺と同じ逗子のアパートで暮らしている。心身を患った俺を、あいつだけは見放すことなく看病してくれた。俺の大切な親友。

「涼太、おはよう」

朝起きると、あいつは決まって朝食を卓上に並べる。グリルで焼いた鮭の粕漬け、具沢山の味噌汁、小松菜の胡麻和え、雑穀米。鉄瓶で温めた白湯まで用意している。頼んでもいないのに。

「相変わらず早いな」

「逗子に引っ越してからの習慣だからね」

「お前は良いよな。毎日好きなことだけやってお気楽だもんな」

生涯に於いて唯一の付き合いと言うべき同居人だが、この格差には屢々(しばしば)辟易させられた。俺はしがない会社員。会社にしがみ付くしかない会社員。こいつは生まれながらの自由人。大学を卒業してもずっと自由人。今朝もこうして心地の良い朝を過ごし、炊事に勤しみ、仕事でも好きなことをし放題だ。

「まあ、そう言わずに食べや」

「お前に俺の気持ちなんか分かんないよ。毎日同じ時間に出勤して、同じように罵倒されて、夜遅くに草臥れて帰る俺の気持ちなんか」

「そんなん言うならもう作らんよ。勝手にすれば」

言い返せない自分も憎い。こいつのお陰で家事の手間が省けている。それに、同じ空間で感じられる人の体温。これが肝心なのだ。鬱で休職した時、これが感じられなくてどれだけ気が塞いだことか。狡い同居人だが迂闊に邪険にも出来ない、絶妙な関係。でも俺はこの親友が憎い。

「涼太、この間の話だけど、やっぱり家賃はこれまで通り折半でも良いか?」

「あ? なんでだよ! 俺の方がお前より毎日数倍は嫌な思いをしているんだから、楽して生きてるお前が家賃くらい全部出せよ! 不平等だろうが! こっちがどれだけ惨めだと思ってんだよ!」

だからこいつは駄目なのだ。こいつには想像力というものが欠如している。自分がぬるま湯にしか浸かっていないから、サラリーマンの苦悩なんか分からないのだ。苦悩している俺を労うくらいの計らいがあったって良いではないか。

「不平等不平等って、あんたが家事をやらなくても良いように炊事なり掃除なりやっているんだよ、こっちは。そこまで言うんなら出て行ってくれよ、本当に!」

「じゃあ俺の医療費出せ!」

「だから、なんでそうなるんだよ!」

「お前みたいな自由人が居るから俺ら勤労者が心を病むんだよ! 俺だってフリーランスになりたかったってんだよ! 自分だけ良い気になっているくせに金を出し渋りやがって! お前なんか死ね!」

腹の底から捨て台詞を吐き、俺は自室のドアを叩きつけるようにぴしゃりと閉める。スーツに着替え、鞄を提げて再びダイニングを経由して玄関で靴を履く。

「おい、玄関の掃除が出来てねぇんだよ。ちょっとこっち来いよ!」

「朝から五月蝿いな、何なんだよ」

親友が目の前に来るや否や、俺は靴べらを使って彼の頭を引っ叩いてやった。

「何が、『家事やらなくても良いように』だよ! 調子の良いことばっかりほざきやがって、出来てねぇんだよ!」

「あのさぁ涼太、ちょっと気に食わないことを言われたからって、いちいち僕に当たらないでくれる? あと、あんまり玄関で大声出さないでくれよ、外に響くから」

口答えしやがって、この野良犬野郎。他人に言いふらせぬような仕事をしているくせに、恥知らずが。

「うるせぇ、口答えすんじゃねぇよ! てめぇもどっか組織にでも入って働けってんだよ!」

絶対にこの家から出て行くものか。家賃が折半でなくては駄目、と言うのであれば家事くらいやってもらわなくては不釣り合いだ。今までの医療費の領収書は日付順に全て保管している。いつか必ず家賃と医療費を全額ぶん捕ってやる。

 あいつと出会ったのは中学二年の頃だ。中学一年の時はあいつの存在を知らなかった。あいつも地味で目立たない男だった。中学二年のクラス替えで、俺と同じくらい地味で素朴で、しかし勉強は俺より出来た。摩訶不思議な男だと思った。俺よりもテストの点数も高いし、内申点も高いのに、あいつには野心というものがない。「勉強はたまたま出来ただけ」などと言って、将来の夢なんか全然なくて、なすがままに立ち振る舞うだけ。初めの頃は気に入らぬ奴だと思った。僭越ながら、俺は勉強だけは誰にも負けまいと努力してきたつもりだ。それなのに、あいつはやる気なんかさっぱり無いのに、俺よりもずっと成績が優秀で、それが気に食わなかった。俺は、一所懸命に努力することが何よりも肝要で、その努力する対象として勉学が最良であると信じて疑ったことはない。俺の親父はいつも言っていた。

「勉強は地道に積み重ねれば自分の資産になり、自分を高められる。他のことは出来なくてもいいが勉強だけは怠らないように。地道に積み重ねるのは根気もいるし辛いこともあるが、乗り越えて頑張りなさい。そして、男の子なんだから、『辛い』と口に出したり、『出来ない』と弱音を吐くのは止めなさい」

親父のその言葉を信じて勉強に励んだものだった。その勉学を、あいつはさも努力なんかしていない素振りで、あっけらかんとした顔で全ての教科をやり過ごすものだから嫌味ったらしくて仕方がなかった。しかし、そのミステリアスな雰囲気に惹かれ、俺とあいつはクラスの中でも頻繁に言葉を交わす間柄になっていった。正確には、まともに会話が出来るのは、クラス、いや学年の中であいつくらいしか居なかった。他の連中が馬鹿だったからだ。体育の授業なんか酷いもので、運動が出来ないからって容赦無く「死ね」とか「学校辞めろ」とか言い放つような低俗な奴らだ。たかが体育の授業でそこまで言える神経はある意味尊敬に値する。また、そういう男子に群がる女子たちも同罪だ。特に鮮明に記憶しているのは、同級生の吉井という男だ。吉井はサッカー部で、同居人のあいつと同じ部活だったが、あいつとは性格も真逆で気性も激しいし、俺は常に警戒し見下していた。吉井とはどうやったって相容れない間柄だった。体育の授業で最も俺を罵倒したのが吉井だ。髪の毛なんか粋がって整髪料で決めて、夏休みには茶髪に染めていたこともあった。勉強なんか全然出来ないのに攻撃性だけは一丁前で、体育でミスした俺に、授業中に発言する俺にいつも口を挟むような奴だ。そんな吉井を好きだという女子が複数居るものだから、つくづく人間の思考は分からない。あんな屑男のどこが良いのだ。大して勉強も出来ないのに、吉井が将来お前達を幸福に出来ると本気で思っているのか。バレンタインの日なんか、小洒落た包装紙にチョコなんか包んで吉井の机に忍ばせたりして、人を見る目がないにも限度があるというものだ。冷静に考えれば分かるではないか。スポーツなんか努力したところで加齢と共に体力は衰えるし、身体能力を失った吉井に何の魅力が残るというのか。勉強は、やった分だけ自分の資産になる。その知識は生きている限り失われることはないし、磨き続けることが出来る。だから、努力する対象として勉強が最適なのだ。至極合理的な考えである。俺は中学時代、実技科目は蔑ろにしても主要五科目の習得は決して怠ることはなかった。それさえ怠らなければ、いずれ吉井や吉井を取り巻く男達も、自分の間違いに気づき、手の届かぬところへ行った俺を見て後悔の念に苛まれる筈だ。授業中の発言にしたって、俺が知っている知識を披露して何が悪いというのだ。「少しは黙ってろ!」なんて吉井は言うけれど、ただ単にお前が不勉強なだけだ。悪いのは何も知らないお前ら馬鹿共だ。大体、制服は着崩すし、授業態度も悪いし、言葉遣いもなっていないような痴人が、体育が苦手なだけで俺に逐一口出しする筋合いがあるものか。俺は生まれてこの方校則を破ったことはない。当たり前ではないか。校則を破る人間よりも守る人間の方が良いに決まっている。幼稚園児でも分かる単純明快なことだ。吉井達は校則を承知の上で平然とした顔で破っていて、それが気狂いでなければ何だというのだ。大人の世界なんか、ルールを犯せば刑務所行きだというのに、刑務所に行くような人間が優れているとでもいうのか。奴らは倫理の欠片も持ち合わせていない。生きているだけで犯罪者なのだから死んだ方が良い。死んだら地獄に行け。俺は断じて通俗的な迷妄は信じないし、校則を守り勉強に励むことこそ美徳であると確信する。あいつらは所詮猿以下の愚民なのだ。

(続く)

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