
第1章 氷河期と革命軍
作:NYO
そう、あれは尊厳死法が成立し、いよいよ救世の毒薬の生産が開始されようとしていた頃だった。まさか、こう急転直下でコトが運ぶとは思っていなかった俺は、目前に迫った死の約束の履行に怯えていた。
「外国に逃げちまおうか」とも考えたが、するともう二度と日本には戻れないだろう。言葉も通じないメイドに世話してもらいながら、一人には広すぎる豪邸で、孤独に老いて死ぬのだろうか。いくら金を持ってたって、そんなのは願い下げだ。
海沿いを走る車の中で、俺は一枚の名刺を眺めていた。
「厭世閣主人」
名刺にはそれだけが書いてある。
アケミの管理している名刺の束に突っ込んであったのだが、こいつを目ざとく見つけて俺のもとに持ってきてくれた男がいた。
アケミと一緒に、俺の事務所で秘書として働いていたロレンスだ。知り合いのライターの息子で、縁故採用した政治家志望の青年・・・と皆には説明しているが、実は金で雇ったコンサルタントだった。
党の支持者から紹介されたのだが、この支持者というのがまた曲者で、どこの政治資金パーティーにも顔を出しており、ひょっと見ると考えられないような政財界の大物と親しげに話したりしている。商社の会長らしいが、名刺に書かれた社名を見ると聞いたこともない会社だ。素性や生業が知れないようにするための隠れ蓑だとしか思えない。
彼は希死の会の党大会にも出席していて、その後の懇親パーティでも馴れ馴れしく握手を求めてきた。そして、その隣に立っていたのがロレンスだ。
会長は彼に挨拶させると「これはうちの書生なんだが、政治家を志していてね。ぜひ駒潟さんのとこで使ってやってほしい」などと早口でまくしたて始めた。
この頃、俺もまだ政治の水に慣れていなかったから、力のありそうな人物からの申し出を断るなんて怖いことはできなかった。まあ、人ひとり取るくらいどうってことないと、送られてきた履歴書を採用担当に投げておいたら、数日後には俺の秘書として働き始めていたというわけだ。
しかし、このロレンス、思いのほか有能だった。かつては、なんとかいう海外のシンクタンクで働いていたエリートなんだそうだ。その後はフリーのコンサルタントとして、まさに世界を股にかけるがごとく企業を渡り歩いていたらしい。
彼を紹介してくれた商社の会長は、金融商品のリスクマネジメントの専門家としてロレンスを雇ったようだ。ところが、彼の制止を聞かずに手を出した怪しげなデリバティブが焦げつき、高額なコンサル料が払えなくなった。で、ロレンスは未払いの報酬を棒引きにする条件として、会長の政治人脈の提供を要求したということらしい。
彼の来日の目的は、投資ゴロの会長から運用益の一部を掠め取るとか、そんなケチなものではなかった。その狙いは、希死の会の起こしつつあるムーブメントと、そこに集まろうとうごめく圧倒的な金の流れの中に身を置くこと・・・なんだそうだ。
本来、彼は俺のような者に使われてくれる人間ではない。だが、希死の会の党首に近づけることと引き換えに、報酬に関しては政策秘書一人分で手を打ってくれている。ディスカウントも甚だしいが、ロレンスがそのことに文句を言ったことはない。
しかしまあ、何が悲しくて、こいつはジリ貧の日本などに帰ってきたのだろう。かくも有能な人物ならば、世界の富豪を相手に己を売り込むべきだと誰もが思うはずだ。俺も当時はそう思った。
だが、老人とおじさんが跋扈する政治の世界で、三十代半ばの青年が希死の会の党中央メンバーの一人にまで出世したのだから、彼の展望は正しかったと言えるだろう。ロレンスの私的口座は今や10ケタを超えており、投資にも造詣が深い彼のマネーは世界中を飛び回っているという。
ちなみに、彼は帰化日本人だ。見た目は完璧なアジアンで、日本語がペラペラなもんだからネイティブの日本人にしか見えない。コードネームはアラビアのロレンスから取ったらしい。「国境をまたいで革命騒ぎに首を突っ込んでるんだから、ピッタリの名前でしょう」とは本人の談だ。
正直言って、彼の語る学歴も職歴も、俺は頭から信じているわけではない。だが、希死の会の幹部の中には経歴のきわめて怪しい者もいる。彼の履歴書の真偽にだけ神経質になるのはナンセンスというわけだ。


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